EIKOTIMELESS 石岡瑛子とその時代

文・取材:河尻亨一

# 22 奪い合い、分かち合い、認め合う日々

yasagure2 「宿愚連若衆艶姿」CF(1980)※「Eiko by Eiko」より

(十文字美信氏インタビュー後編です) 前篇はコチラ

——「宿愚連若衆艶姿(ヤサグレテ アデスガタ)」は話題になったキャンペーンですが、そういうお話を聞いた上でポスターを見直すと発見があります。なんとなく服がチグハグだったり、靴が泥だらけのモデルがいたり。

衣装も彼らの私物ですから。で、撮影当日にこの人たちが入ってきたのを見て、ピンとくるものがあったんです。セッティングは済ませたものの、スタジオの白い壁よりも、反対側のむき出しの壁をバックに撮ったほうがリアルなんじゃないかと。それで「ホリゾントの反対側に並べて撮りたい」と言ったら石岡さん、「面白い。それでやって!」とこれまた即決でしたね。

この仕事に関しては、写真がいいとか悪いとかではなく、あのときの、あの緊迫した、あの部屋の中で——という状況が忘れがたくて。

僕の場合、デザインや広告は仕事として割り切ってますから、広告のアートディレクターと接するというのは、あくまで仕事の上で接するということで、自分の写真への向き合い方とはまた違いますが、このときは互いに必要なものを与え合うというか、むしろ奪い合うということがどういうことなのか身をもって知ったというか、まあ、決死の覚悟でしたね(笑)。

この話は十文字がマスターである「Cafe bee」の店内でうかがった。平日の昼間だったがけっこうお客でにぎわっている。珈琲は十文字がみずから焙煎したものだ。撮影等の出張で留守にするとき以外、この7年に渡って毎日焙煎をしているという。こだわりというのか凝りに凝ったというのか、味と香りの探求エピソードも大変興味深くうかがった。

「官能的なドラマ」を理想に掲げる十文字の珈琲に対する向き合い方については、先に挙げたオフィシャルサイトにあるブログにも書かれている。器もすごいもののようだ。スペシャルやストレート珈琲は、主に1800年代のキャビネットカップで供される。これらはオークションで競り落としたという。庭も手入れが行き届いている。窓からふと外に目をやると猫が中をのぞいていた。

私は珈琲に関して「おいしい」「おいしくない」のこだわりくらいしかない人間で、豆がどうだ抽出がどうだといったことは正直よくわからないのだが、どういうわけかこの珈琲は、考えごとが捗るような気持ちにさせられる。十文字が所用でいったん席をはずしてから、話に出たパルコのポスターに関して、アレコレと妄想がふくらんだ。

「宿愚連若衆艶姿(ヤサグレテ アデスガタ)」というちょっと変わったコピーは、長沢岳夫氏、杉本英介氏と並んでパルコの石岡のコピーを多く手がけた小野田隆雄氏によるものだ。

「夜露死苦」など日本の不良が好む漢字の当て字を、本場の“ヤンキー”たちの横に置くことによるギャップ、それでいてハマるイメージを狙ったのかもしれない。石岡瑛子のパルコの仕事の場合、ビジュアルができてからコピーの順に作業は進むので、おそらくこのときもそうだったのだろう。

小野田が先ほどのエピソードを知った上でこのコピーを書いたのかどうかはわからないが、「やさぐれ」を「宿・愚・連」と当てているところを見ると、実は知っていたのかもしれない。NYの宿で困り果て、それこそ「やさぐれ」た愚連隊(不良)の気分になりかけていた連れ、つまり石岡たち撮影班を、本当はロケに行きたかったコピーライターが、高見の見物的にちょっとからかうような気持ちも交えて書いたのでは? などと考えてみると面白い。

石岡自身は「宿愚連若衆艶姿」に関して次のように書いている。

「ニューヨークのパンカーは、ロンドンの若者のようにラディカルな姿勢があるわけではなく、ただ外側をパンクっぽくパッケージした連中にすぎない。

ファッションを発信するのは、ファッションデザイナーだけではないと、いささかの不満をかかえていた日本の若者は、このパンカーセブンにエキサイトした。

テレビがオンエアされ、街にポスターが貼られ、新聞広告が登場すると、頭の構造にカビがはえかかっている中年婦人から『パルコは家出の勧めをやる気か』と抗議の電話が入ったそうである。(中略)

私はこのポスターのデザインを東映ヤクザ映画の看板のようにつくりたかった。コピーをドーンと大きく横に朱色で使う意図だった。これは、パルコからの強力な反対によって、現在のおとなしいデザインに落ち着いたのである」(『Eiko by Eiko』より)

1980年の「宿愚連若衆艶姿」以降、十文字は“日本にいない人”となってしまった石岡瑛子と仕事を共にすることはなかった。渡米後は会うことさえなかったという。だが、それから約20年後、2000年代に入ってから突然、石岡から十文字の元に、あるプロジェクトの誘いが舞いこんだ。

そのプロジェクトは結局実現することはなかったが、当時、日本人の美意識をテーマに作品を発表していた十文字にふさわしいものだった。十文字は「その話を聴いた瞬間にすごく鋭いなと思いました」と言う。遠くアメリカから、石岡は十文字の活動や作品をチェックし続けていたのだろうか?

冒頭でもご紹介したように、十文字には作家としての活動と広告カメラマンとしての仕事の両方がある。「デザインや広告は仕事として割り切っている」と語った十文字だが、その両分野において40年以上の長きに渡り創作を続けられるというのは、何か秘訣でもあるのだろうか。つまり、タイムレスに現役のクリエイターで居続けるためにはどうすればいいのか?

これは言葉で言うほど容易なことではなく、十文字の写真集のタイトルではないが、まさに“バケモノ”とさえ思えるほどだ。この機会に聞かない手はないと考え、テーブルに戻った十文字に思い切って直球を投げてみた。

——広告の仕事に関してですが、人の移り変わりが早く消耗が激しいと言われる業界でご自身の仕事が途切れないのはどうしてだと思われますか?

うーん、どうなんでしょう……? 言うことを聞かないからじゃないですか? たぶん。もちろん仕事としてお引き受けしているわけですし、クライアントやCDの好みもあるわけで、あるところまではその方向性でやりますけど、「これは絶対こういうふうにしちゃダメだよ」というところは、絶対やらないですから。

仕事を断るんじゃなくて、言うことを聞かないでやっちゃう。なんて言ったって、撮るのは僕ですからそこは任せてもらわないと。それを押し通してやってきたから、いまだに仕事があるんじゃないかな? ただ言われる通りにやっていたら、もうないと思いますよ。

それとやっぱり、広告の場合は、答えがすごくはっきりしていますから。印象に残るか残らないか? 話題になるかならないか? ひいてはその商品が売れるか、売れないか? が大事なわけです。

だけど、商品が売れる前に、印象に残らなきゃ意味ないでしょう? よく言うんですけど、お金を払うほうにしてみたら、「何にも印象に残らないよりむしろ悪い印象のほうがまだいいよ」って。だって、少なくとも会社の名前は覚えてもらえるし、商品も記憶に残るわけですから。見た人に「そんなのあった?」って言われたら、何千万出しても何の効果もなかったということになりかねない。

でも、印象に残すことはたったひとつでいいんです。作る人が全部よくしようとして、まとめてうまくバランスをとってやろうなんて思うと、なんの印象にも残らない、毒にも薬にもならないつるんとしたものができちゃう。それならば「毒になったほうがまだいい」って言うんです。仕事ってそういうものじゃないかと。そのスタンスでやってきたことが大きいと思います。

——ただ、どこまで自分を通し、どこまでの毒や薬ならばOKなのか? といった見極めは難しいものでしょうね。

そこは自分に自信がないとダメでしょうね。で、自信を持つためには、鍛錬しかないわけですよ。ここの珈琲の焙煎でも、だれに習ったわけでもないけど毎日やるんです。火加減とか冷やし方とか、ちょっとずつちょっとずつ変えて確かめて行く。鍛錬というか研究ですね。それはどの分野にも言えることだと思います。僕が写真を通して、さまざまなことを考えながらやってきたことは、写真だけじゃなくいろんなことに通じます。

鍛錬——十文字は石岡瑛子と同じ言葉を使った。「表現者は自分を鍛えて鍛えて鍛え抜く必要がある」というのは、石岡の生涯の持論である。その厳しさを耐えられることが、長くこの仕事を続けられることにつながるのだろうか?

私は十文字にもうひとつ質問してみたいことがあった。それは坂田栄一郎氏へのインタビューの際にも話に出た、雑誌「カメラ毎日」の伝説の編集者・山岸章二氏についてである。山岸は石岡瑛子とはそれほど深い接点や交流はなかったように思われるが、写真家への取材を重ねる中で、“その時代”を読み解くためには知っておかなければならない人物だという気がしはじめていた。十文字のデビュー作となった「UNTITLED〈首なし〉」も、山岸が掲載を決めたものだという。

untitled 「UNTITLED〈首なし〉」(1971)より
出典:十文字美信オフィシャルサイト

——山岸章二さんという人はどういう方でしたか?

ひとつ確実に言えることは、山岸さんがいなかったら、日本の写真家はこういうふうになってなかったし、日本の写真は世界に認められていなかったということですね。

たとえば山岸さんがキュレーションをして、ジョン・シャーカフスキーというニューヨーク近代美術館の写真部長と二人で日本の写真をセレクトすることで、MoMAで初めて日本人の写真展(1973年/「New Japanese Photography」展)が実現したんですけど、それもすごい業績だと思います。

つまり彼抜きにして、日本の写真は語れない。でも、いまの写真評論をやっている人は、山岸さんの影響力がどれくらいのものだったか? を知らないし、語らない人がほとんどなんですね。それは僕はおかしいと思う。山岸さんのことをきちんと語って、ちゃんと評価なり批評するなりして、その上で自分はこうだ、というふうにしてくれないと土台を見失ってしまう。

僕を含め彼がいたことがデビューにつながった写真家はたくさんいますし、彼から影響を受けた人はもっともっと多いでしょう。僕もこの仕事を始める前に、「カメラ毎日」でコンテンポラリー写真というものを目にして、すごいショックを受けましたから。

それを自分の写真に取り入れる、取り入れないは別として、それまでの日本の写真のドロッとした感じの世界じゃないものを見せられ、「こういうのが写真なんだ」と思ったわけです。立木義浩さんの「舌出し天使」(1965年)にしても、ファッションともヌードとも、なんとも言えないものなんだけど、なんか「いま」みたいなものを強烈に感じましたよね。写真に対して「コンテンポラリー」という言葉を使ったのも、山岸さんが最初じゃないかと思います。

——「舌出し天使」は編集長に無断で56ページの大特集を進め、会社にも内緒で勝手に入稿していた、というエピソードが有名です。いつでも責任を取れるように、常時辞表を懐に忍ばせていたとか。

まあ、ああいう人っていまはいないですね。僕は山岸さんとは、彼が亡くなるまで深く付き合っていましたが、ワンマンというか絶対的な自信を持ってました。山岸天皇なんて言われるくらいのね。信念というか、自分の目というか、そういうのは強烈でしたから。

でも、そのくらいでないと世の中を動かすことはできないですよ。他人から「えっ!なんで?」と言われても、あれくらい強烈に「いや、これでいいんだ」っていうものがないと、新しい何かを見つけたり、伝えることはできないんでしょう。

1979年、山岸章二はみずから命を絶った。60年代、70年代を通じて発酵と蒸留を繰り返し、熟成に至ったデザイナーと写真家のアツい日々も終わりを告げようとしていた。80年代に入って「シラケ世代」という言葉がつぶやかれるようになる頃から、日本は空前の好況期に突入することとなる。のちに「バブル」と呼ばれる時代である。

写真に対する筆者の読解力は、珈琲に対するそれと同じ程度の浅さだが、「編集」という意味では同業であるためか、十文字の話を聞いて以降、日本の戦後写真の目に見えない“フレーム”をクリエイトした男、山岸章二の仕事に対する関心はますます大きくなっている。しかし、これはまた別の物語となるだろう。

一方、石岡瑛子は1980年の末、ほぼすべての仕事・活動を突如休止し、単身NYに飛び立った。それから約2年に渡ってニューヨーク大学に留学したのである。プロフェッショナルとして脂がノリにノッた40代前半でのその決断に、首をかしげる人も多かったが、このステップがのちの飛躍につながることとなる。

「宿愚連若衆艶姿」(春キャンペーン)をはじめ、写真家レニー・リーフェンシュタールの「NUBA展」トータルディレクション、吉祥寺パルコオープンなどの大仕事を終えた直後のことであった。

(3章に続く)