EIKOTIMELESS 石岡瑛子とその時代

文・取材:河尻亨一

# 26 亀倉先生、石岡さんは「いーこ」じゃありません!【松永真氏インタビューⅢ】

石岡瑛子と資生堂の時代をめぐる松永の回想を聞いているうちに、私にはそれがまるで「いま」のことであるかのように思え始めた。縦に流れていた時間がいつの間にか横に流れている。

「そう言えば造形作家の伊藤隆道も、石岡さんが『この人面白い』ということで、課長の宮河さんに推薦してデビューしたんです。資生堂の本社のウィンドウに、彼が針金で何か作ったり、口紅をだーっと並べるのをよく徹夜で手伝いましたよ。彼の奥さんがおにぎりを作ってくれて、それを食べながら。
僕のほうが1年後輩なんですけれどね。彼は教授のような顔をしていた。当時あそこに都電が走っていて、電車が走ると、マグネットでガラスに並べた口紅がざーっと落ちてしまったり。すべてが試行錯誤でしたよね。

やっぱり黎明期というのは、いろんな人材がいて、わっとくっつくことで新しい波ができていく。いま思うと、とっても自由だったんじゃないですかね? 銀座にはライトパブリシテイがあって、日本デザインセンターもあって、昼飯どきになるとそこで遭遇するんですよ。『あ、ライトの細谷(巖)さんがいる』とか『あれが横尾(忠則)さんか』とか。そういう時代でしたね」

新しい才能あふれる若手たちが、互いを温め合って孵化していく。1980年代のゲーム業界、2000年代のIT業界もそういった場所だったと思うが、時代を体現する場所にいつも"人材"は集まるのだろう。その意味で1960年代のデザイン業界は時代のホットスポットだった。松永の展示のタイトルを借りるなら、"デザイン・フリークス"の時代。もっと新しく、もっと自由な表現を志向する人々がデザインを自己実現の手段として選び、若手が受賞したいと思うアワードも盛り上がっていた。

「日宣美での受賞はとにかく憧れでね。我々20代のデザイナーからは完全に夏が奪われてました。出品用のポスターを作るんですよ。それも職場で。なんかね、ふつふつとしてたんですよ。夢があったというか。それは若者にとっては、とても刺激的でよかったんじゃないですかね。石岡さんが日宣美賞を取ったときの『現代の発見』も、作業をそばで見てましたから。村瀬さんや横須賀さんがその前から試みていたことでもあるんだけど、砂目を使った硬派な仕事がとても新鮮でしたね」

石岡が受賞したのち、松永も特選を受賞している。そうやって認められた若手はデカい仕事のチャンスにも恵まれることになる。当時、資生堂の中でも注目度の高い花形の仕事、つまりデザイナーならだれもが食べたがるおいしい仕事は「サマーキャンペーン」だ。石岡&横須賀コンビは、17歳の健康美あふれる前田美波里を起用し、「太陽に愛されよう」で世間にセンセーションを巻き起こす。

日本の広告では初となるハワイでの海外ロケを行ったとも言われるキャンペーン。若いデザイナーたちの夏は奪われながらも、仕事では夏を謳歌していた。

しかし、当時、石岡や松永が関わった多くの仕事の場合、アートディレクターは中村誠であった。制作スタッフの冒頭に「アートディレクター」として記されるのも中村である。そして、1968年に石岡が資生堂を去ってフリーになった後、その大仕事を引き継いだのは松永。彼らと"上司"としての中村との関係はどんなものだったのだろう?

「石岡さんもそうだったと思うんですけど、『サマーキャンペーン』なんて、僕がタヒチにまで行って横須賀さんとケンカまでして撮ってきた写真なのに『なんで中村さんが?』というのはやっぱりありましたね。

で、石岡さんと僕で中村さんを激励したことがあるんです。『中村さんは親分なんだから、親分らしくどんと大きく構えていてください』なんて生意気言って。実力を認めて起用してくださったのは中村さんですから、我々はとても感謝していますが、まあ、「うるさい部下だ」と思っていたでしょうね。

学んだことだってたくさんある。中村さんは職人的なところがありました。校正刷りに色鉛筆で着色したりカッターナイフで削ってハイライトを指示して校正するような、製版者に非常に伝わりやすいことをやったりね。撮影現場よりフィニッシュワークが好きな人なんです」

松永が手がけたサマーキャンペーン「BRONZE SUMMER」(1969年)や「BIG SUMMER」(1970年)も、初めて資生堂にゴチックを持ち込んだと世間で話題になった。しかし、前田美波里以降、資生堂のポスターが目立ちすぎたためか、「海外ロケのツケが消費者にまわってくる」と抗議する一群の人々が現れ、その翌年、海外ロケは中止ということになる。いつの時代もある「広告へのクレーム」というものだ。

だが、夏のキャンペーンそのものを止めることはできない。そこで松永は一計を案じた。

「僕だって海外ロケに好き好んで行っていたわけじゃない。ただ、冬の真っ盛りにやるわけだから、タヒチやハワイに行かないと真夏の風景が切り取れないし、キレイな海が撮れないだけで。それで『中止』と言われたときに、『なんとか国内で撮れないかな』と思って作ったのが、『人・人・人』ってポスターでね、水着を着た千何百人もの人を隠し撮りしてそれを全部トリミングして、まるでビーチで一発撮りしたかのように見せてるんです。

これはカメラマン14~15人でやったんですよ。トリミングだけで3週間くらいかかっちゃう。サイズを揃えるために、大きな写真は縮小したり小さい写真はちょっと拡大するなんてことをやっていたら、海外ロケをはるかに上回る費用がかかっちゃったの。コンピュータもない時代のアナログですからね。そんなこんなで大変な思いをしたんだけど、注目度の高いキャンペーンですからね。僕としては、こういうしたたかなデザイナーもいる、ということを言いたい気持ちもあって。石岡さんのやり方とは違うんだけど」

石岡の仕事ぶりを「貪欲」という言葉で言い表した松永だが、こちらも正直「貪欲」である。あるいは時代が貪欲だったのか。オイルショックもまだ訪れておらず、日本という国は高度成長という夏の真っ盛りであった。

松永は「石岡瑛子と僕には原体験に似通ったところがある」と語る。

「この取材を受けるにあたって『EIKO by EIKO』を読んでいたらね、いろんなとこが僕と一緒なの。東京で生まれて疎開をして、彼女は山形、僕は福岡なんだけど、疎開先で大変な目にあったりもして戻ってきた。大学も学科も同じですしね。石岡さんの父親は図案家(グラフィックデザイナー)で、うちの親父は書家というところも共通するものがある。年齢は向こうが少し上なんですけど、幼い頃見た原風景が似すぎているくらいね。

この本に石岡さんは、山川惣治の『少年ケニヤ』が好きで、『熱烈な恋をし、少女期の憧れの男性像となった』って書いてあるでしょう? で、僕も小松崎茂よりも山川惣治の素朴な絵が好きだった。それで資生堂に入ったら、僕の前に座っているのが石岡瑛子でね。後から佐藤晃一もやってきて、それぞれ個性は違うけどみんな机の上にまな板があって、カッターナイフで写植を切り刻んでいたし、資生堂書体も練習させられた。そういう時間を共有した後で、結局みんな辞めたわけですけどね」

石岡は資生堂を1968年に退社、遅れること3年、1971年に松永も去る。会社から引き止められた松永は、「化粧品は宇宙なんだよ」と説得する上司にこう言ったそうだ。「いや、それはわかるんですが、僕はチョコレートにも焼酎にも出会いたいんです」

こうして新しい宇宙へと飛び出した松永。だがしかし、彼が新しく構えたオフィスに、早速姿を見せたのは、先に新しい宇宙を満喫していた石岡瑛子だった。

「いや、『松永くん、生意気よ。私よりあとに辞めておいて、うちの事務所より広いなんて』って言われまして。そこに山口はるみさんとか、小池一子さんみたいなお姉さんたちまでやって来て、うちの引き延ばし機なんかもパルコの作業に使われてましたよね。あるとき、パルコの増田さんという専務から花束がうちの事務所に届いたこともあった。もちろん、石岡さんと山口さん、小池さん宛ての花束ですよ。僕は花びんを出したり、水を入れたりして大変なんです(笑)。

石岡さんは資生堂を辞めるとき用意周到でしたよね。ふだんの仕事ぶりは大胆不敵なんだけれど、後先考えずに「もう辞めちゃう」っていうのではなかったと思う。まあ、大半の先輩たちがそうなんですけどね。次のステージをきちっと用意したり、どこかと契約をしたり、いろんな人がそうやって辞めていった中で、一人馬鹿みたいなのが僕でした」

石岡の渡米後も松永は折に触れて交流の機会があったようだ。亀倉雄策、田中一光を交えて食事をしたときの光景はこのようなもの。

「亀倉さんは石岡さんを可愛がっていましたね。よく『いーこ、いーこ』って言ってましたよ。新潟のほうの訛りがある方だから『えいこ』って言えないの。いま思うとびっくりしますよね。石岡さんがニューヨークからたまに帰ってきて、亀倉さんが場を作って、田中一光さんがいて、僕も呼ばれてみんなでフグを食うなんてシーンはいまは考えられない。

で、食事してると石岡さんが、ぱっと僕の席の横に来るのよ。それで色々言うわけ。『日本のデザインはこのままじゃダメ』みたいなことをね。すると亀倉先生が『いーこ、いーこ、松永くんが怖がっているじゃないか? 彼も頑張っていい仕事してるんだから、そんなふうに言うんじゃない!』って。それを聞いて僕、思わず「瑛子さんは、いーこじゃありません。悪い子です」って言ってやったんだけど(笑)。亀倉さんは面白かった。あんまり理屈っぽく言う人じゃないのにモノゴトの本質を究めていて、それを田舎のおっさんふうに言うんですよ。

瑛子さんからは、手紙もよくもらいましたね。押しの強い手紙を。正直というか赤裸々というか(笑)。弟分のように思ってくれていたのか、そういうのはたぶん僕に対する安心感でしょうね。で、実は僕はその手紙を読んでいつも素直に姉貴はスゴイと喜んでいたの。向こうでのいろんなことを僕には遠慮なく自慢できたんだと思うんです。

どんな内容だったか? うーん、貪欲な石岡さんのことですから。手紙は先日、亀倉さんや田中一光さんに頂いたものと一緒に整理しちゃったんだけど……。まあ、ひと言で言うと『私はすごい、私はすごい、私はすごい』ってことですかね(笑)」

銀座でたまたま出会って、「マツナガくーん」と大声で呼びかけた石岡。渡米後も「私」を全開にしながら"弟分"に接していた。手紙は失われたが、その声は松永の心から消えることはないだろう。