EIKOTIMELESS 石岡瑛子とその時代

文・取材:河尻亨一

# TIMELESS 外伝1:CMディレクター杉山登志とアートディレクター石岡瑛子(中編)

サイコロ

《アメリカのCMが教科書だった》

社内にフィルム撮影のノウハウなど教えてくれる人がいない中、杉山登志はどうやってCM制作の技術を身につけたのだろう?

答えは独学である。

資生堂の仕事に関わったのを契機に彼は、宣伝部のテレビ・ラジオ担当だった金子秀之の元に足繁く通うようになる。後年、金子はジャーナリスト・田原総一朗のインタビューにこう語っている。

「わたしのところに、その頃、沢山、アメリカのコマーシャル・フィルムがありましてね。もちろん、向こうから、苦労して、あらゆる伝を頼って取り寄せたのですよ。そのことを、ちょっと杉山登志に話したら、彼、毎日通ってきましてね。わたしのテーブルを占領して、手動の巻き取り機で、フィルムをゆっくり巻き取りながら、コマーシャル・フィルムのオーバーラップや、ズームアップ、ズームバックなどのコマ数、サイズなどを丹念に調べてるわけですよ。毎晩、深夜までやられるので閉口しました」(問題小説・1977年11月号)

アメリカのCMが杉山の"教科書"だったのだ。

参考にしたのはアメリカのCMだけではない。CM以外の様々な制作現場から演出のテクニックを学ぼうとしていた。孤独な学びのシーズンだった。のちに杉山はある雑誌の書評記事に、こんな一文を寄せている。

「ぼくたちがCMの仕事を手さぐりで始めたころ、生まれたてなのにからだだけが怪物みたいに発育していくこの赤ん坊を、どんな方法で育てるのか、どんなしつけをすればいいのか、全く知識がなく、何かいい"育児書"はないものかと血なまこになって捜し歩いたものです。それが見つからないので、ただヤミクモに制作してみるのですが、何がよくて何が悪いのか、完成してみないと見当がつかない」(博報堂「広告」1966年)

「ヤミクモに制作」していたわりには、自分の進むべき方向を冷静につかんでいた。デビューの翌年には、「コマーシャル映画」をテーマに雑誌に寄稿し、映画と異なるCM独自の映像表現とはどうあるべきかを考察している。

この記事の結びで杉山は、CMとは「時間をデザインすることではないだろうか」と書いている。よく映画のことを「時間の芸術」と言うが、彼の頭の中では、CMは「デザイン」なのだ。

つまりこの人は、自分は"映像アーティスト"ではなく、"映像デザイナー"なのだと考えている。簡単に言うと、芸術家ではなく広告家だ。これが書かれた時代と、書いた人の年齢を考えると、ちょっと恐ろしいくらいの覚めた認識だ。20代前半にして、すでに老成、あるいは達観している。

「コマーシャル映画は、アートディレクター的な感覚と才能を持った人が演出家として必要なのである」とも書いている。(「グラフィックデザイン大系」1961年)

だが、杉山登志はCMを流す器である「テレビ」という箱が好きになれなかった。「だってテレビはね、嘘発見器だからさ。なんか怖いんだよね」と知人によく話していたほどだ。そして、"芸術"ではないコマーシャルというものは、世間から胡散臭い目で見られることも多い。

ある日、こんなことがあった。

杉山は「劇団 新制作座」の八王子にある本部を訪れる。劇団員になっていた日芸時代の友人に会うのが目的だったが、照明技術が高く評価されていた新制作座のメンバーに、テクニカルな話を聞いてみたい、という思惑もあったようだ。このときその場に居合わせ、のちに杉山と親しく付き合うようになったのが片塩二朗(朗文堂/タイポグラファー)だ。

その片塩が後年、あるインタビューにこう語っている。片塩によれば、その場で自分の仕事の話をした杉山は、同席していた作家・きだみのるを激怒させてしまったのだ。

「登志さんもきださんの読者だったみたいで、演劇論から造形論になって、きださんがCMへの懐疑を述べたんです。ほとんど罵倒に近い。お前は走狗かと。そしたら登志さん、うつむいて『私は企業のポチです』と言った……。その言葉が今も耳に残っているんです」(「dankaiパンチ」2008年6月号・北沢夏音「昭和グリンプス」より)

きだは『気違い部落周游旅行』などの著作で知られ、読書好きな青年たちから熱狂的に支持されていた作家。杉山自身愛読していたその作家から罵倒に近い言葉を浴びせられ、どんな気持ちだったろう? 彼は"そっちの世界"への憧れも強かったのだが。

しかし、映画づくりに挫折してCMの世界に入った若者と異なり、杉山の場合、映像表現に対する先入観がないぶん、より柔軟な発想でCM制作に取り組むことができた面はあるだろう。日天が映像の素人集団だったからこそ許された道だ。

実際、日天は独特だった。『テレビCMの青春時代』で著者の今井和也は、このプロダクションの独自性について言及している。今井はレナウンの宣伝部長も務めた人物で、テレビCM担当として杉山と仕事をした経験もある。

同書にこんなくだりがある。

「テレビCMの揺籃期、ほかのプロダクションのスタッフには劇映画や演劇畑からの経験者が多かった。彼らは好きで宣伝なんかをやっているのではないと思っている。純粋芸術の世界に入れなかったという挫折感がどこかにある。(中略)

その点、日天のディレクターたちはほかの仕事の経験がなく、CMづくりが面白くて仕方がないという若者が中心で、それだけほかのプロダクションにはない活気があった。有名になってから杉山登志や葛上周次に劇映画をつくらないかという話が持ち込まれたが、彼らは、CMが本職ですからと断わっている。CMより劇映画が上という意識は彼らにはない」

情報感度が高くセンスの良い若手を集め、CM映像のプロフェッショナルとして育てるーーそんな社風もあって、数々のプロダクションの中で日天は独自のプレゼンスを高めていくことになった。

くわえてもうひとつ、このCM制作会社がユニークだった点がある。

それはある時期まで、スポンサー直の仕事が大半だったことだ。つまり、広告の依頼主と制作サイドのあいだに広告代理店が入らない。これはクリエイティブの現場に、よけいな忖度が入りにくいということを意味している。野心的なクリエイターと広告主は、濃密にコミュニケーションを取りながら仕事を進めることができた。

見方を変えると、"恵まれた"環境でもあったわけだ。この制作環境は、テレビCMのビジネスがまだ混沌とした黎明期であったこと、日天社長の伊庭がやり手であり、相手が大手企業であっても物怖じすることなく、飛びこみ営業をかけていたことでもたらされたものだろう。

伊庭は銀座界隈で酒を飲んだ帰りなど、クライアントの所在地の前を通るたび、その社屋に向かって最敬礼していたという。カオスな高度成長時代だったとはいえ、独立系のスタイルでビジネスを成功させられたのは、理解ある広告主あってのことだった。

ちなみに石岡瑛子も、仕事は"直"でやることを好んだ。それも企業トップと直接話せる環境が用意されなければ、仕事は基本引き受けない。都合上、広告代理店をあいだに挟まざるをえなかったときでも、代理店社員は瑛子のオフィスに足を踏み入れることを禁じられていたという。そこはクリエイティブの聖域だからだ。

《企業のポチがコマーシャルの神になる》

たった一人で始めた杉山登志のチャレンジだったが、見よう見まねで取り組む中、光も見えてきた。

ディレクターになって3年目の1963年、資生堂の金子らと一緒につくったCMが、国際広告映画祭の「テレビCM部門」で銀賞を受賞する(資生堂ファッションベイル・「サイコロ」篇)。

サイコロ状の箱にモデルの写真を合成し、BGMにのせて箱を回転させながらストーリーを展開する仕掛けのあるCMだが、いま観ても古びないアイデアとセンスのきらめきを感じさせる。

サイコロ2

この年には、日天で杉山の後輩ディレクターである葛上周次も、明治製菓の劇場用CMで「シネスコ部門(劇場CM部門)」の金賞を受賞している。杉山に次いで入社した葛上は東京藝大卒。会社では後輩だったが、年齢はひとつ上である。葛上はのちに大学の同級生である高杉治朗を日天に誘った。

彼らはみな、日本のコマーシャル史に名を留めるスター・ディレクターに成長していった。つい5年前まで、映像をつくれる社員がいなかった日天のCMクリエイティブ力に対する評価は、国際広告祭での受賞を契機に上がり始める。

杉山の受賞にはクライアントからの"ご褒美"もあった。

金子に誘われて杉山は、資生堂のCM音楽を多くつくっていた作曲家の桜井順と三人で、ベネチアで開催された広告映画祭を視察に訪れた。この国際広告祭は、現在は「広告映画祭」から「クリエイティブ祭」に名称を改め、「カンヌ・ライオンズ」の略称で知られているものだが、この頃は一年おきにカンヌとベネチアの二都市で開催していた。

ここで杉山は、広告祭に出品されたCMを毎日何百本も観て、海外CMのパワーと表現の幅広さと深さに圧倒される。ベネチアを視察した後、アメリカに渡り、ここでもCMを浴びるように見た。

「3000本は観た」とのちに語ったそうだ。

杉山をベネチアに誘った金子は、海外視察をこのように回想している。

「毎日何百本ものCMを、朝から晩まで見ていると、良いものもあり、くだらないものもある。また、イギリス、フランス、イタリア、アメリカなど、国民性の違いがそのまま表現に表れ、興味深かった。そんな話を、毎晩ビールを飲みながら、語り合ったものだった。(中略)

ヴェニスで見て『いいな』と思った作品は、よくよく検討してみると、映像も、音楽も、ナレーションも、非常に緻密に計算されていることに気づいた。これは、コンテ段階で、相当に検討されているに違いない、という三人とも同じ結論に達した」

そこで三人は、自分たちがCMづくりをするにあたって守るべきいくつかのルールを決めた。

企画(コンテ)は3案用意し、一週間は時間をかけて吟味した上で選ぶこと、コピーライターや作曲家はもちろん、グラフィック担当者なども含めた全スタッフミーティングを行うこと、仕上がりがよくなかった場合は撮影し直すこと、などだ。

日本のクリエイターがみな試行錯誤でCMをつくっていた時代に、三人がベネチアで決めたこの制作ルールは画期的だった。それから二年もたたないうちに、「CMに関する賞という賞を取り、資生堂の全盛時代を築いた」と金子は回想している。

CMディレクターになって早い段階での海外視察は、杉山登志にとって大きかった。

美術やライティング、カメラワークに編集、音楽の使い方など、テクニカルな面での学びも多かったが、それ以上に収穫だったのは、CMは人間を描くことで商品も輝く、という気づきを得たことかもしれない。

ベネチアを訪問したこの年、杉山は金子や桜井らと広告祭を振り返る座談会に参加している。その内容は、広告業界誌に掲載された。

いま読んでもアツさが伝わってくる刺激的な座談会だ。1960年代前半に"世界の実力"にふれた日本のCM関係者たちが、自分たちの仕事を今後どの方向に持っていくべきかを本音で語り合っている。たとえばこんなくだりがある。

「杉山 アイデアをどれにすべきか、ということはもちろん大切だけれど、アイデアをどう生かすか、ということが今後の課題だね。
 金子 いうなればしんどい仕事、いま日本の場合は、忙しいという口実で避ける傾向がある。
 杉山 現在の独立プロ的な雰囲気がなければダメだね。"よしそれではスタッフはこれとこれを集めよう"ということで意気投合してワッ! とやる。
 金子 スタッフが集まって考える時間、お互いに意見を出してブレーン・ストーミングをやる時間、確かに向こうは時間をかけてやっている。日本にはこういうことはないから」(雑誌「ブレーン」1964年)

こういうところを読むと、2010年代も後半に入った現在、カンヌ・ライオンズ視察から帰国した若いクリエイターたちが話している内容となんら変わりない。私たちはこの50年、堂々巡りのように"同じ話"をしている。時代はそこで止まっているかのようだ。

だが、彼らはアクションを起こした。広告映画祭を見て、自分たちで決めた制作ルールを実行したのだ。そのことでグローバル水準の国産CMがつくれるようになった。

勉強家だった杉山は、アメリカのCMフィルムを研究し、海外CMを浴びるように観ることで、広告映像が持つ独自の話法やリズムをつかむ。

日大芸術学部(油絵科)に通い、一時期は絵本画家を志していた彼にとってCM制作は、当初必ずしも望んだ仕事ではなかったが、生まれたばかりのこのジャンルにみずからの"キャンバス"を見いだしたのである。

視察後の杉山は、それまで以上に意欲的に、新しく実験的な表現に挑むようになる。

冒頭のエピソード、つまり石岡瑛子が杉山登志からホネケーキでのコマ撮りを頼まれたのも、同じ年のことだ。先にふれた座談会でも杉山は、こんなコメントを残している。「(ある受賞海外CMに対して)こういうのを見てもわかるけど、本格的にデザイナーがCM制作に参加しているね」

翌年の1965年、杉山は「チェリー・ピンク」という口紅のCMをつくった。90秒のこの長尺コマーシャルは、ACCというCM業界団体主催のアワードでグランプリを受賞している。

モノクロ時代のCMだが、この中でも杉山は思い切った映像実験を試みている。カメラをブランコにのせて、その揺れる視点から商品を描いたのだ。当時としては斬新すぎるコマーシャル映像であった。

チェリーピンク

《企業のポチはコマーシャルの神になった》

日本のCM史に残る傑作とされる杉山登志の仕事は、この1965年以降に集中している。

全盛期には資生堂だけでなく、トヨタ自動車やキユーピーなども含めて年間70本以上のCMをつくり、一時期は資生堂コマーシャルの「九割くらいやってもらっていました」(資生堂のアートディレクター・中村誠)という状況にまでなっていた。カンヌやACCといった広告賞も何度も受賞するなど、"賞獲り男"の名をほしいままにする。まさにCM界のクロサワだった。

超のつく売れっ子だったが、景気が良かったのは杉山登志だけではない。CM業界全体が活況を呈していた。

小津安二郎の「お早よう」が公開された1959年には、テレビの世帯普及率は約15パーセント程度だったのが、その後、年々急激に伸び、1965年には約90パーセントに達している。そして、その翌年あたりから今度はカラーテレビがぐんぐん伸びていき、1975年に約90パーセントの普及率となる。

それだけ多くの人がテレビを観ているーーということは、そこにコマーシャルを流せば商品が売れるということでもある。

経済状況も良かった。50年代後半のなべ底不況のあと、日本は岩戸景気、オリンピック景気をへて、戦後最大のビッグウェーブ「いざなぎ景気」を迎えようとしていた。池田勇人首相が1960年にぶち上げた「所得倍増計画」は7年で達成された。日本は目もくらむようなスピードで、金持ち国への階段を駆け上がったのだ。

大手広告主はこぞってテレビCMをつくりたがった。だが、まだCM制作会社の数、CMをつくれる人材もいまほど多くない時代だ。仕事はいくらでもある。

事実、日天は1960年代終盤になると、新規クライアントの仕事をほぼ受けられない状況に陥っており、70年代に入ると組織改革を行って、営業部を廃止したという。つまり、営業など頑張らなくとも仕事は来る。バブリーなこの業界に若い才能がどんどん流入し始めた。

杉山登志がCMディレクターデビューして五年。時代はパッと変わった。杉山らがつくったCMに、"チャンネルをあわせて"観る世代が誕生したのである。日本のテレビCMは最初の黄金期を迎えた。

「杉山組」と呼ばれる制作チームも育っていく。書籍『CMにチャンネルをあわせた日ー杉山登志の時代』の中で、美術デザイナーの長沢佑好が杉山の思い出を語っているが、彼の人柄や仕事の流儀がジワッと伝わってくるいい話である。少し長めに引用しよう。

「スギさんと仕事をやっている時は、いつもみんなで一つのものを作っているという気持ちでいた。コンテをもとに本読みをやって、イメージをそれぞれのスタッフに伝えるんだけど、それを今度はみんながふくらませる。そのふくらませるプロセスを大切にした。

スギさんの中には、新しいものが渦巻いていたんだ。

一度一緒に仕事をしたら、男は必ずほれこんだね。ファンになるっていうのかな。素晴らしいものを持っていた。そして、人を育てるのがうまかった。いいものはいいと認めてくれるから、若いやつがみんな頑張るようになる。僕自身もいろいろなことを教えてもらった。『本は財産だ、一生の宝だよ』と言って、本を読むようによくハッパをかけられた。スギさんの家には本が山積みになっていた。

キャンペーンなんかの長期ロケの時は、自分たちで料理を作って飲むんだ。スギさんはステーキを作るのがうまかった。それからシチュー、天下一品だった。味覚を知っている人だった。

自分にとても厳しい人だった。ミスは許さない人で、よく怒った。(中略)スギさんは良い仕事をしたいために怒るわけで、こっちもなんとか怒られないようにって気持ちになる。だから厳しさが生まれるんだ。

演出やアイデアの面でも優れた人で、スギさんの、モデルやスタッフから何かを引き出す力はすごかった。たとえば、モデルに『いいね、いいね』と言いながら……。本当に演出していると感じる。また、いいアイデアがない時はみんなに聞くんだ。みんながいろいろ言うと、それを聞いて、『うん、そういうのもあるかもしれないな』と言いながら、自分のオリジナルのアイデアで自分の絵を作っていく。確認しながらやっているわけだ。

でも、まわりはピリピリしながらやっていて、自分の領域での失敗は決して許されない。そういう厳しい雰囲気だから、ひとつの仕事が終わった時の喜びはとても大きかった」

長沢の話はチームの内側からの回想だが、レナウンの今井和也は、スポンサー側の目で見た杉山登志の撮影現場を語っている。1970年、飛ぶ鳥落とす勢いだった杉山に、CM制作をオファーしたのだ。

レナウンはすでに「ワンサカ娘」や「イエイエ」などのCMを大ヒットさせており、これらの演出は電通映画社の看板CMディレクター、松尾真吾が担当していた。杉山への依頼はこれが最初で最後となった。

顔合わせの日、今井は杉山登志と初めて言葉を交わす。

だが、彼は挨拶らしい挨拶もせず、企画会議の席でもほとんど発言せず、レナウン宣伝部が考えていた「エレベーターを舞台にファッションショーを見せる」というコンテ案も即座に却下した。その態度に反感を抱いた宣伝部員もいたようだ。しかし、「天下の杉山登志に注文つけるのは野暮だ」とのことで、企画は杉山に一任、無修正のまま進めることになったという。

そして今井は、撮影現場で"CMの神"を見た。その光景を次のように綴る。

「撮影は福岡空港で行われた。大勢のスタッフと外国人の一流モデルをたくさん引き連れての大がかりな撮影だった。杉山登志は現場では演出家であり、カメラマンであり、スタイリストであり、照明マンであり、進行係であり、神である。

スタッフに大声で指示し、咤し、怒り、なだめ、ほめる。スタッフは彼の声のままに機械のように正確に動く。彼は頭の中にできあがっているコンテを撮影カットで埋めていく。コンテ外のアイディアがひらめくと練達の狩人のように逃さずシューティングする。カットがどうつながっていくかは杉山登志の頭の中にしかない」

「三日間、福岡空港でカメラを回しつづけた杉山登志は、これではダメだ、と言い出した。後ろに窓があるショットを撮りたいと言うのである。急遽、予定外に大阪の伊丹空港で追加撮影することになった。こうして、このCMは普通の数倍のフィルムが回った。現像が上がり、杉山登志は試写室に誰もいれず一人で長いラッシュフィルムを見つづけた」(『テレビCMの青春時代』より)

まさに生き神が降臨したかのような現場であり編集作業だった。無口な絵本画家志望の学生だった杉山登志、愛読する作家の前で「私は企業のポチです…」と自虐的につぶやいた杉山登志とは、別人のようなマエストロがそこにいた。

完成したのは、新婚カップルが空港で、レナウン・ルックで着飾ったモデルたちの"ファッションショー"を偶然目撃する、といった内容のCM。今井は「モデルたちはいきいきと自然に動き、つくりものの感じがまったくない」と感想を記している。「福岡空港がニューヨークのように見えた」そうだ。

しかし、このCMは日本の広告アワードで受賞こそすれ、それほど長くオンエアされなかったようだ。きらびやかな外国人モデルたちと比べてしまうと花嫁が見劣りする、などの理由で宣伝部のウケが悪かったという。レナウンの商品を買うのは、日本の女性たちなのである。

(続く)