EIKOTIMELESS 石岡瑛子とその時代

文・取材:河尻亨一

# 27 強靭かつシャープ。彼女は内側にマグマを秘めていた:インタビュー永井一正氏

資生堂時代の石岡瑛子は、どんな若手デザイナーだったのか? 当時、後輩だった松永真からは職場での生々しいキャラクターが語られたが、クローズアップだけでなく引いた目線からの証言も聞いてみたい。それを語るのにふさわしい人が永井一正だ。

永井は日本を代表するグラフィックデザイナーである。

永井は1951年に東京藝術大学彫刻科を中退し、地元大阪で商業美術作家(デザイナー)としてのキャリアをスタートした。その後、上京して亀倉雄策、原弘、田中一光、山城隆一らとともに日本デザインセンターの創設に関わり、現在は同社の最高顧問を務める。

戦後グラフィックデザイン界の軌跡を知る長老であり、現役のクリエイターでもある。

これまでにデザインしたポスターや企業ロゴなど数知れない。身近に目にするものでは「JA」に「三菱UFJフィナンシャル・グループ」「アサヒビール」のロゴなど。札幌冬季オリンピックのオフィシャルマークも永井の手によるものだ。1980年代以降は、ドローイングによる「LIFE」シリーズも発表し続けている。

「LIFE」の新作では毛むくじゃらの不思議な生き物たちが描かれる。フクロウや猿のようにも見えるが、森の妖精のようでもある。この生き物たちが、ポスターを見る人をカッと開いた大きな目で見つめ返す。


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シンプルな線描だが、じっと見ているとポスターの"向こう側"に吸い込まれそうな気持ちになってくる。俵屋宗達の白象図を見たときに感じるようなエネルギーがある。これは生命そのもののデザインなのだろうか?

話は銀座にある日本デザインセンターのオフィスで聞いた。永井は90歳を迎えたいまも定期的に出社している。彼も同時代のほかのデザイナーたちと同様、1965年に日宣美グランプリを受賞した「シンポジウム 現代の発見」で、石岡に注目したという。このときに受けた印象を永井は次のように振り返る。

「決定的にすごい人が現れたんだなと思いましたね。彼女はそれ以前も、レコードジャケットで(日宣美の)特選に選ばれましたが、『現代の発見』は完成度の点で類まれないものでした。これは架空の連続シンポジウムなのですが、議論のテーマ設定や登壇者など、まずその内容が非常に練られたものであり、それぞれのビジュアルも中身にふさわしいものでした。見る者の心をわしづかみにする強靭さがあるんです。

彼女の仕事は、強靭さと同じくらいシャープさも併せ持っていました。例えば資生堂時代のホネケーキ石鹸。あれはまさに石鹸をまっぷたつに切ったわけですけど、非常にシャープで、『時代を先取りする眼の確かさ』を感じました。やはりね、彼女を育てたのは資生堂と日宣美だというふうに思います。

一世を風靡したサマー化粧品(資生堂)では、太陽をいっぱいに浴びた健康美を全面に出して、山名文夫さんに代表される、それまでの憂いを含んだ、いわば竹下夢二的な伝統を完全に払拭しています。これは日本の広告で初のハワイロケと聞いていますが、砂浜があるだけで、ひと目でハワイとわかるものは何も入っていない(笑)。だけどやっぱりあれは、ハワイの太陽があったからこそ、撮れたものなんですよね」

石岡が新人デザイナーの登竜門である日宣美で、グランプリ(一般公募部門)を受賞した1965年は、日本のグラフィックデザインが最高潮の盛り上がりを見せた年である。日宣美は1951年にグラフィックデザイナーの職能団体として創立、60年代にはアワードでの受賞がステータスとして広く認知されるようになっていた。

永井は次のように言う。

「タイミングもよかったんでしょう、石岡瑛子のデビューというのは。グラフィックデザインが若者の憧れになっていった時代ですから」

その時代をいま想像することは難しいが、実際そうだった。石岡のグランプリ受賞と同じ年、銀座松屋で11名の日本人デザイナーと海外の招待作家らによる「ペルソナ展」が開催される。この展示は巷の話題となり、6日間の会期中に約3万5000人を集めるという、当時としては前代未聞の来場者記録を打ち立てた。

3万5000人と言えば、それほど多い数のように思えないかもしれない。だが、展示会場は百貨店のさして広くもないギャラリースペース。会場は連日満員電車のような活況を呈したという。

この"ブーム"の伏線としてあるのが、東京藝大の学生だった石岡が知人のツテで潜り込んだ1960年の「世界デザイン会議」と4年後の「TOKYO 1964」である。

「TOKYO 1964」と言うと、亀倉雄策による日の丸を想起させるシンボルマーク(いまで言うエンブレム)がいまなお伝説のように語られるが、この五輪は亀倉のみならず、日本のグラフィックデザイン界がベテランから若手まで総力をあげて取り組んだ一大プロジェクトだった。

田中一光、勝井三雄、木村恒久、杉浦康平、横尾忠則、宇野亜喜良、細谷巖、仲條正義ら、その後著名になった新進気鋭のデザイナーたちが五輪のデザインに協力している。永井もその一人であり、それ以前にはエンブレムの指名コンペに参加していた。

一方翌年の「ペルソナ展」に参加した11名とは、粟津潔、宇野亜喜良、片山利弘、勝井三雄、木村恒久、福田繁雄、細谷巖、永井一正、田中一光、和田誠、横尾忠則である。五輪のデザインを担った当時の若手・中堅デザイナーたちと顔ぶれが近い。

デザイナーの強い「ペルソナ(個性)」を打ち出した展示企画の成功は、宣伝美術と呼ばれたグラフィックデザインが、ただものを売るための表現ではなく、それ自体独立した"アート"として鑑賞される存在になり始めたことを意味する。

グラフィックデザイナーを「アルチザン(職人)」ではなく「アーティスト」として世間は認識するようになり、その意味では1965年は日本のグラフィックデザインが、進化あるいは変質し始めた年でもあった。その年に日宣美グランプリを受賞した石岡は、デザインとアートのど真ん中に立っていたのかもしれない。

永井は石岡瑛子の仕事に宿る、「デザイン」にも「アート」にも収まりきらない特殊性にも言及した。

「70年代になると彼女は、角川書店などの仕事を始めますよね。例えば『女性よ、テレビを消しなさい。週刊誌を閉じなさい』といったキャンペーン。あれは『もっと本を読みましょう』というメッセージなんでしょうけど、モデルの選び方を見ても、未来を志向する行動的な女性を暗示している。石岡瑛子は、単なる鑑賞的なグラフィックだけじゃなく、それを見た女性を奮い立たせたり、行動に駆り立てるというような、そういうものを志向していたという気がするんです。

それを言葉で説明することは難しい。なんて言うんでしょうか? ヘンな力があるんですよ。ちょっと粘っこいような不思議な力というか…。ビョークのミュージックビデオにしても、口から赤い糸が出てくるわけですけど、ああいうのは病的なエロチシズムを感じますね。

まあ、クリエイターというものは、表現したいものに対する素直さと同時に、そういったドロドロしたマグマのようなものがないと。つまり、人に隠しておきたいような欠陥、あるいは欠落というか、そういったものが浄化されて表現されたときに強い力が生まれる。だから、極端なものの両方を自分自身の中に抱えていないとダメなんですね」

デザインであり、アートでもある。この両極性が石岡瑛子の仕事の評価を難しくしている。だが、この"どちらでもある"表現から、人を行動へと駆り立てるビームのような力が発射されている。

私は永井に尋ねてみたいことがあった。60年代に日本のグラフィックデザインが、時代を牽引するにまで盛り上がったのはなぜだろう? という問いである。デザイナーたちを支えたモチベーションとはなんだったのか?

永井はこのように答えた。

「敗戦が大きいですね。全部失ったわけですから。私自身、家に焼夷弾が直撃して、命からがら逃げたんです。勉強部屋から出て何秒か後に直撃弾が落ちてね、焼死体のあいだを逃げた。人間のどん底を味わって、日本はもうダメだというふうに思ったんですよ。

そこで戦後、グラフィックデザインの先輩たちが、日本を復興するにはデザインの力が必要だと考え、亀倉雄策さんや河野鷹思さん、山名文夫さん、橋本徹郎さん、原弘さんといった方々約50名が集まってできたのが日宣美で、これは敗戦からわずか6年で結成されたんです。

それも東京だけじゃなく地方のデザイナーも巻きこんで全国組織にしようということで、亀倉さんが当時大阪で仕事をしていた早川良雄さんや山城隆一さん、九州の西島伊三雄さんらを口説いた。

そのときの亀倉さんの説得力も大したものなんだけど、このままではダメだという気持ちがみんなに共有されていたんですね。それで全国のデザイナーが結集し大きなムーブメントになっていく中で59年に東京でオリンピックをやることが決まり、1960年の世界デザイン会議へと道が拓けていった。あの頃はそんな時代だったんです」

やはり日宣美という団体の持つ力は、大きかったようだ。その立ち上げ準備期の会合参加者のリストには、瑛子の父で図案家であった石岡とみ緒の名も記されている。