EIKOTIMELESS 石岡瑛子とその時代

文・取材:河尻亨一

# 16 もし帰ってくることがあったら、私に電話をくれる?(インタビュー:坂田栄一郎氏)

newmusicmedia2 New Music Media 2(1976年  AD:石岡瑛子/P:坂田栄一郎 )


「もし帰ってくることがあったら、私に電話をくれる?」。石岡瑛子はそう言って坂田栄一郎に紙切れを渡した。

1970年のこと。ニューヨークでリチャード・アヴェドンのアシスタントを務めていた坂田は、初めての個展「Just Wait」のために一時帰国していた。当時まだ物騒なエリアとされたタイムズスクエアの街角に立ち、雑踏を行き交うひと癖ありげな人々に、「ちょっと、待って!」と声をかける。そうやって撮りためた写真から30点ほどをセレクトしたこの展示は、巷の評判となっていた。

会場は銀座のニコンサロンである。資生堂から独立したばかりの石岡は、まったく面識のない無名の青年の写真展に足を運び、その才能に目をつけた。それからおおよそ1年半。帰国した坂田は、言われた通り石岡に電話をかけてみた。

「そのあとわりとすぐに『仕事を手伝ってほしい』という連絡があったんです。最初の大きい仕事はダイアナの靴の広告でね。黒人の少年がピンクのサテンのハイヒールを持った写真なんですけど、その1枚がすごく話題になった」

黒バックに驚いたような表情でハイヒールを持つ少年。色の対比が強烈で靴のピンクが鮮やかに浮かび上がる。

「マイク!その靴にさわらないで!」というコピーは長沢岳夫によるものだ。これが坂田栄一郎の本格的な広告デビューの仕事となった。坂田は日大芸術学部の写真科を卒業したのち、広告制作の名門ライトパブリシテイに入社したが、ほどなくして渡米を決意する。

学生時代にアルバイトをしていたディスプレイ会社の社長が、200ドルの片道航空券をくれた。そしてアヴェドンというファッション写真の巨匠のもとで4年間を過ごした。

――巨匠アヴェドンのところで修行を積んで話題の個展をやって帰国なんて、いろんなところから声がかかったでしょうね。

いや、全然そんなことはなくて。帰ってきたときは厳しかったですよ。雑誌に取り上げてもらえたりはしたんですけど、だれも仕事なんかくれないし、どこに行っていいかもわからないしね。世の中意外と冷たいもんだなあと。

だから石岡さんが頼んでくれて、ダイアナで応えられたのはよかった。コダクロームというポジフィルムで撮ったんです。それがブレイクして角川文庫を石岡さんとやるようになって、ムービーも始めたら30本くらい……断るほど仕事がきましたから。

ダイアナはもう1点撮ったんです。ローレン・ハットンがイエローキャブからサッと降りてくるところの写真でした。「ヴォーグ」で一世を風靡した人ですけど、アヴェドンが彼女をよくモデルにしていたので、僕も知ってたんです。そしたら石岡さんが、「また、ローレン・ハットンを使って何かやりたいね」って。

ロケのとき彼女は少数精鋭で行くのを好んでましたね。僕は英語をしゃべれたので制作進行も兼ねるみたいな形になって、電話をかけたり、お金をくずしたり、といった細かいこともしてたんですよ。

ニューヨークに行くと、ユナイテッドネイションホテルがオープンして間もない頃でね。そこはケヴィン・ローチという有名な建築家がつくったんですけど、「そのホテルに泊まりましょう」って言う。「えー、そんなところに泊まれるの?」って聞いたら、「せっかく行くんだからね、ただ泊まって帰ってくるだけはいやなの。いろんなものを経験したい」と。

そういう好奇心が人一倍ある人ですから。面白い思い出がいっぱい残ってる。いろんなハプニングがあって楽しいの。角川文庫の仕事でね、そのときもニューヨークに行ったんですけど、「やっぱりジャマイカも行ってみたいわね」なんて話が急に出てくる。それでほんとに行っちゃったんだもん。ニューヨークでアイデア考えてね。

――そういうのってクライアントに怒られたりしないんですか?

「私がアートディレクターなんだから私が決める」ということなんですよ。角川書店のプレゼンだと、石岡さんの事務所に社長の角川(春樹)さんを呼んじゃう。角川さん、ネクタイをさわりながらモジモジしてたなあ。

石岡さんも彼女なりにちゃんと説明するんですよ。ダイアナのときもそうでした。僕はアヴェドンのところにいたにもかかわらず、ファッションのポートフォリオはないし、ドキュメンタリーみたいなのを撮ってたから、そういうカメラマンなんだと思う人だっているわけですよ。報道と婦人科みたいに写真家を色分けしていた時代ですから。

それで僕を使うということに対して、最初クライアントが難色を示したらしい。ふつうなら「ほかの写真家を探しましょう」って言うんだろうけど、石岡さんが説得してくれたんですね。その中で「あなたたちは口を出さないでほしい」くらいの言い方もしたかもしれないけど、結局クライアントも納得してくれたんでしょう。

――説明したり説得したり、それでもダメなら説教することもあったと?

説教っていうか、まあ僕なんてしょっちゅう怒られてましたけど。ほんと冗談ばっかり言ってるから。「サカタ、いい加減に冗談やめなさいよ!」って。

とにかく真面目な人、それでもって完璧主義者ですからね。打ち合わせでも、撮影に必要なものを本当に細かいことまで全部やって、たとえば、渡辺貞夫さんのアルバムジャケットにしても、帽子から靴下ひとつにまで全部彼女のイメージがある。「一緒に貞夫さんのところに行って、服を見せてもらいましょう」ということになって、クローゼットの中からそのイメージに合うものをお借りしたんですけど。

sadaowatanabe 渡辺貞夫「My Dear Life」(1977年)


ほとんどの場合、話をしながら考えるんですよ。たとえば、あるクライアントから依頼があるとしますよね。すると、まずコピーライターとフォトグラファーを呼んで、コンセプトや石岡さんのイメージを説明して、「1週間でアイデアを考えておいてください」と。

で、次の打ち合わせになるとね、「まずはサカタから。考えてきたアイデア見せて」と言うので、描いたものを渡すと、「これはこう見るの?」なんて、紙の向きをいろんな方向に変えて見ている(笑)。「こっちが上ですよ!」って言うと、「あら、そうだったの?」なんて。そうやって一つひとつ見ていくんです。次にコピーライターのアイデアも見る。

で、最後に「じゃあ、私のね」って見せてくれると、やっぱり石岡さんのアイデアは斬新なんですよ。こういうのを撮ったら、ものすごいインパクトのある写真ができるだろうなと思わせる。石岡さんも自分でわかってるんです。「私のが一番いいでしょ?」って。

――それを言いたかったところもあるんでしょうか(笑)

うん、そういうところもね、面白いんですよ。でも、僕にしたら「悔しいなあ……」ってなりますよね。絶対に今度は面白いアイデア考えてやると思ってまた行くんです。すると、「なかなかいいじゃない。サカタ、少し考える力がついてきたわね」なんてちょっと褒められてさ、すごい厳しいんだけれど、とても楽しく仕事ができましたよね。

やっぱり彼女はいいものをつくろうと、いつもそう思ってるわけじゃないですか。我々も常に前向きに考えられるんですよね。そういうエネルギーを持っていたから。

でもね、予算はあんまりなかったです。石岡さんも「私の仕事はいつもお金がないの」って言ってたくらいで。「そんなのいいよ、僕は面白ければやるから」って言ってやってたけど、はっきり言って、予算は本当に少なかったですね。その中でいいものをつくっていこうという、彼女にはそういう姿勢があったから、僕はどんなことでもついていけたんだけど。

お金はなかったけど余裕はあったという感じですかね。いろんなところに行きましたよ。雑誌「MORE」の旅シリーズ(「島には風がある」)でニューカレドニアに行ったりとか。これはイッセイ(・ミヤケ)さんの服で、ロケには田中一光さんもいらしてました。なんで一緒に来ちゃったのかはわからないんですけどね(笑)。まあ、そうやっていろんな仕事をどんどんやっていき、そのうち、飛行機の中で石岡さんと僕がケンカしちゃったんです。僕も言いたいことは言うからね。

newcaeledo.nie 雑誌MORE「島には風がある」(1979年)


だから、石岡さんとの仕事は彼女がフリーになって初期のものが多いんですよ。しばらくしてまた一緒に仕事するようになったんですけど、今度は彼女がニューヨークに行っちゃったから。でも、仲は良かった。その頃はまだ赤坂の狭い事務所にいたんだけど、打ち合わせが終わると、しょっちゅう食事に行ったりしてね。

――ケンカしてまた仕事するようになれたのはどうしてでしょう?

彼女は言いたいこと言うんだけど、愛情を持って言ってくれているのがわかるから。人間、そういうのって本能でわかりますよね。そんな人、なかなかいないもの。それでケンカしてもまた元に戻ってね、仲良くやっていたんだけれど。好きなこと言い合ってもわかりあえた気がする。人間ってやっぱり深いところで付き合わないとハッピーになれないと思う。

そうやってお互いにいい風を与え合う関係がいいよね。僕も「お互いにいい風を与えよう」という生き方なんです。ヒッピー世代ですから。シェアハピネス。相手がだれであっても、“You are happy. I’m happy!”って感じでいきたいよね。

石岡さんにも、もっといい風を与えてあげられたらよかったんだけれど、あんまり乱気流になっちゃうとまずいからさ(笑)。写真家だと横須賀さんが一番つきあい古いと思うけれど、横須賀さんも瑛子さんと深いところでわかり合ってたんじゃないかな? と僕は思いますね。

――仲良いにせよ、ケンカするにせよ、写真家の方々が石岡さんと一番濃密な関係を築かれてたようにも思います。

石岡さんもね、写真、大好きだったから。外国の写真家のこともよく知ってたし、僕も向こうの写真界のことを教えてあげてました。僕の個展にしても、自分で会場に足を運んで見る、というところが全然違うんですよね。いまってあの頃と比べると、何百倍も忙しい時代になってしまっているから、みんなネットとかで間に合わせちゃうでしょう? そうなってしまうと表現が肉体に結びついていかないんじゃないかと思います。

そういう意味では、彼女は本当に勉強家でしたよ。写真もそうだけど、どんなことにも興味を持っていた。建築でも、デザインがどうといったことだけじゃなく、「どういう状況のもとにその建物ができたのか?」といったことから知りたがるんです。あらゆる分野の人と交流を持とうとしたのも、いろんなことを知りたかったんだと思う。社会的なことや政治的なことにも関心が強くてね。

そういうことに興味を持てないと、ものなんて作れないでしょう? ただビジュアル的に面白いというのではダメで、社会的なものが根底にないと。

newcaeledo.nieissey ニューカレドニアにて。坂田栄一郎氏(中央)と石岡瑛子氏(右端)


※次回は5月22日(金)更新の予定です。