EIKOTIMELESS 石岡瑛子とその時代

文・取材:河尻亨一

# 17 いつでもスタート台に立てるようにしておかないとダメだよ

AERA_EIKO 「AERA」表紙より一部を拡大(1993年/撮影:坂田栄一郎)



※坂田栄一郎氏のインタビュー後編です。前編はコチラから。


石岡瑛子は1976~1977年にかけて、雑誌「アサヒカメラ」誌上において、2年にわたって毎号インタビュー連載を手がけている。「リアルタイムフォトグラフィー」と題されたその連載は、気になる仕事をしている写真家を毎月のゲストに招き、石岡が話を聞くものだ。カメラメーカーのコンタックスとのタイアップ企画である。

この連載は人選も興味深い。沢渡朔や十文字美信、操上和美ら、石岡が一緒に仕事をしたことがあるプロの写真家だけでなく、寺山修司や小沢昭一といった「撮るのも好き」という著名人も招かれる。もちろん坂田栄一郎も登場している。少し引用してみたい。

石岡:サカタはニューヨークで、長い間アベドンと一緒に仕事をしていたけど東京に戻ってきてから何年になるかしら。

坂田:あっという間に四年たってしまった感じね。エキシビションをやってから五年になる。帰ってきてから、コマーシャルやファッションを主にやってきたんだけど、最近は、やはり自分の写真をやらなければならないと思っています。(略)

石岡:どこか発表の場を借りるなどして継続してやっているテーマはありますか。

坂田:特にないけど、今、漠然とだけどテーマを決めて撮り続けているものはあるの。ライフがある写真を撮りたいですね。篠山(紀信)さんのように着実に発表していきたいな。「オレレ・オララ」にしても、こないだ出た「家」にしても彼のやっていることは外国でも高い評価を得ていますね。(略)

石岡:サカタにはアベドンの影響はどうなんですか。(略)

坂田:人間に対するコミュニケーションの仕方ですね。モデルをそこに置いた瞬間すごく短時間でコミュニケーションをつけてしまうんだね。それは素晴しいものだよ。(略)この手法は僕が世界各国を撮り歩くときのベースになっているような気がするね。(略)

僕は外国へ行くとき一生懸命言葉を覚えようとするね。なるべく通訳を使わないでコミュニケーションをとろうと努力するの。(略)それでいろんな人に会えることが愉しみなんですね。人との出会いをいちばん大切にしているんです。

石岡:それはサカタが人間に限りない興味をもっているからなのね。(「アサヒカメラ」1976年6月号の対談より)


人間に対する限りない興味、そのテーマに対する坂田栄一郎の探求がうかがえる代表的な仕事に、週刊誌「AERA」の表紙シリーズがある。「時代」という意味を持つこの雑誌は1988年に創刊。以来、坂田はこれまでに表紙の肖像写真を1000人以上手がけている。

ご存知のようにこれは、政治家からアーティスト、経済人など、日本と海外の著名人やいま旬な人たちのポートレイトを撮影する同誌の名物企画だ。その中にはダライ・ラマやネルソン・マンデラ、ゴルバチョフといった世界を変えた偉人も多く含まれている。

1993年、坂田は石岡瑛子も「AERA」で撮影した。石岡がアカデミー賞を受賞した頃のことだ。撮影前、石岡はこういったそうだ。

「サカタ、これ表紙だからね。わかってるわよね?」

――プレッシャーかかりますよね。“わかってる”というのはどのあたりのことなんでしょう?

彼女が好きな写真ということなんです。こう撮ってほしいというのがあるんですよね。それは僕もわかってますから。でも、あえてそう撮らなかったかな?

僕の「AERA」の仕事を、彼女は買ってくれてました。表紙の写真をまとめた『LOVE CALL』(2008年)という作品集が出たときに送ったんですけど、「サカタ、いい仕事してるね。これだけの人数、撮れないから」なんて言ってくれて。そういえば、「オバマを撮るときは、私も絶対呼んで!」って言ってたな(笑)。

――すごい好奇心ですね。ところで、そういうワールドワイドなスゴい人たちって、どのへんが人と違うんでしょう? ひと言で言えるようなことではないと思いますが。

うーん、やっぱり揺るぎないものがあるね。まったく揺るぎない信念を持っている。まず、ぱっと入ってきたときに、もう見抜いてくれるの、相手が。それがいいね。会っただけで、すぐコミュニケーションできて、写真が撮れる。

そこに行くまでが結構大変だったんですけどね。指揮者のレナード・バーンスタインを撮ってから、ちょっと変わったんです。なかなか撮らせてもらえない人ですから。そうやっていろんな人を撮ってきたから、すぐにうちとけて、僕のことを信用してくれるのかな。

人にもよるけど、外国人のほうが撮るのは楽かもしれませんね。冗談が通じるし切り替えもうまいから。日本人だとその人のバックグラウンドとか、いろいろ気を遣わないといけないことがあったりするでしょう? そしたら人が見えてこないよね。

――坂田さんがニューヨークから帰ってきて10年したら、今度は石岡さんが行ってしまったわけですが、それについてはどう思われましたか。

行くって聞いてびっくりしましたけどね。たいして英語もしゃべれなかったので。まさか向こうでアカデミー賞を獲るようになるとは思いませんよ。

でも、すごくいろいろな苦労があったと思うな。その困難を乗り越えられるだけの人なんですね、瑛子さんは。やっぱりものすごい努力家だし、あれぐらいアグレッシブにいかないと、ニューヨークでは生きていけないと僕は思うけれど。半端なものはダメだし、いいものはちゃんと認められる世界だから。でも、人の100倍無理していたんじゃないかな?

行ってからもときおり電話で話をしたり、手紙でやり取りをしてたんですけど、そういうときにね、「お山の大将になっちゃダメよ」ってよく言われました。

「サカタ、こっちにいらっしゃいよ。ダメよ、お山の大将になって日本でいばってたんじゃ」って。「そんなことないよ」って言うんですけどね。そんな感じで教わることはすごく多かった。あの声がいまも聞こえるもの。お金に動かされてやっていたんじゃいいものはできない。ひとつのものに集中してやっていかなきゃって。

いつだったかな? 僕が一番苦労してたとき、バブルの頃なんですけどね。1日500万円の仕事が入ってきたんですよ。ロサンゼルスにいたらマネージャーから電話がかかってきて、「坂田さん、その日、別の仕事入ってるんですけど」って。そっちは予算の少ないレコードジャケットの仕事で、「それをキャンセルしましょうか?」って聞かれたのね。

「キャンセル? とんでもない。先に仕事を入れてくれたんだから、そっちを優先しなきゃいけない」って言いました。うまくやり繰りすれば二つでも三つでも入れられるのかもしれないけど、そういうやり方をやってはダメだというのも石岡さんから教わったことですよね。

たまに東京で会ったりすると、「変わらないね、日本は」っていつも言ってました。失望していたんです。「子どもの国に来たみたい」って。

――どのあたりについて、「変わらない」と言ってたんでしょう。“子どもの国”というのは?

僕も「何が違うんだろう?」っていつも思うんですけどね。外国に住んでいる人は、日本人でも全然違う気がする。日本には宗教戦争もないし、階級闘争もないじゃないですか。緊張感のない温和な生活の中で育ってきているから、甘えがあるんじゃないでしょうか。いい意味でも悪い意味でも生きやすい国ですよね。

あと、交流の幅が狭いよね。たとえばニューヨークなんか行くと、人種もいろんな人種がいるし、年齢も関係なく、いろいろな職業の人と交流があるでしょう? そういうことが自然とできる場なんです。

日本って似た者同士で群れますよね。そういう枠組みのなかで育っちゃうと、考え方までそうなっていく。それは前から感じてたことだけれど、おっかないよ。

そういう社会では、石岡さんみたいな人の出番はない。40いくつで向こうに行っちゃったでしょう? その頃、彼女は日本での仕事はなかったもの。

――80年代になると70年代とはまた世の中の感じが変わってしまったんでしょうか。

その通りです。人も変わっちゃったんですね。本当に早いんですよ。あっという間にがらっと変わる。石岡さんはよく言ってましたけどね。「いつでもスタート台に立てるようにしておかなければダメだよ」って。グラフィックデザイナーなんだけど、いつか違うことをやるんじゃないかと自分でも思ってたに違いない。

日本がこういう社会になってきて、アートを取り巻く仕事もどんどん変わってきちゃって、「やっぱりこっちのレールに行こう」というふうに感じてニューヨークに行ったんじゃないかな? そのへんの直感が鋭い人ですから。

結局、瑛子さんは時代についていっちゃったんだね。向こうではそうでないとやれない。ちょっと休んでいたら、すぐに次の人が入ってきちゃうから。僕も住んでいたことがあるからわかるんですけど、それくらい厳しいもの。だけど、はっきりものを言っても大丈夫な社会だから。そこは違いますよ。日本だと正論がなかなか通らないからね。

――坂田さんは、いまという時代についてはどう思ってらっしゃいますか。

もっと変化が早いですよね。10年どころか、半年で変わっちゃうんじゃない? 僕ね、しばらく休んでいたから、この1年くらい結構いろんな勉強をして、それでこれだけ早いんだってことに気づけたけど、ふつうに忙しく仕事をしていたら、そんなこと考える余裕ないですよ。広告の人だと、やれプレゼンテーションだ、なんだかんだと、朝から晩までそれで1日終わって、土日は疲れちゃってるでしょう? そうなると世の中の動きから取り残されちゃう。

写真家もそうだし、音楽にせよ、建築でもそれ以外のジャンルでも、本当はクリエイティブの人たちが、いろんなことをまず勉強しなくちゃいけないわけですよ。デジカメがこれだけ普及してだれでも写真を撮れるようになったわけだから、その状況をふまえた上で「プロとしてはやっぱり古典から学んでおこう」とかね。だけど、そういう余裕がないから、ひとまずタレントを載せるとか、ちょっと格好よく撮ればなんとなく安心というのもあるのかもしれない。

ようするに、みんな自分の足下のごく狭いまわりのことしか見えなくなった。それで写真の世界もダメになっちゃった。

――でも、変わらない部分もありますね?

そうなんです。僕はいつも「一番大切なのは勇気だよ」って言ってる。アシスタントの若い人や学生たちにね。それさえあれば、何だってできるから、と。石岡さんはとっても勇気を持っていた人だと思う。

人って恐がりですからね。昔からそうなんですよ。最初はあの人だけ、僕に頼んでくれたんだもの。石岡瑛子に会わなかったら、いまの僕はなかったかもしれない。やっぱり人って出会いが大事だと思う。あとは自分次第だものね。それをどうつなげていくかということだから。

そういうところはいつの時代も一緒なんですよ、結局。

myroom


坂田栄一郎は、石岡瑛子からの“ラブコール”で広告写真の世界にデビューした。しかし、ごく早い時期から坂田の写真に注目していた人物がもう二人いるという。一人は篠山紀信である。ニューヨークで坂田の作品を見て、個展の開催をプッシュしたのは篠山だった。

もう一人は編集者の山岸章二である。「カメラ毎日」の編集部に所属していた山岸は、帰国した坂田の作品を十数ページにわたって特集した。現在、大御所と呼ばれているような数多くのフォトグラファーのデビューのきっかけを作り(作品発表の場を提供し)、日本の写真表現のレベルアップに尽力したこの編集者に、本稿の取材の過程で私は関心を持った。いつでも出せるよう辞表を持ち歩くなど、さまざまな伝説がある。

ラブコールは時代の中で見えないままに連鎖する。石岡瑛子のストーリーから離れてしまうため、あまり多く言及することはできないが、山岸のような型破りの人が活躍できたのも、また「その時代」というものかもしれないと思った。1979年に他界した山岸に関する情報はネット上にもそれほど多くはないが、ご興味のある方は、次の記事(写真評論家の飯沢耕太郎氏によるもの)などもご一読いただくとよいだろう。

●写真が熱かった時代『カメラ毎日』と山岸章二( vol.1〜3)

※サイトリニューアルのため1週間ほど休載させていただきます。次回更新は6月5日(金)の予定。詳しい更新情報は以下Face Bookページよりお知らせしています(取材の進行状況、ミニエピソードなども)。引き続きおつきあいのほどよろしくお願いいたします。

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