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EIKOTIMELESS 石岡瑛子とその時代

文・取材:河尻亨一

# 19 「昔はよかったね」というのはないんですよ

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(前回に続き、写真家の操上和美氏にお話をうかがっていく)

――石岡さんとご一緒されたパルコ以外の仕事のお話も聞かせていただきたいのですが。

パルコ以外だとエディトリアルですね。エディトリアルの場合は広告と違って、ストーリー展開と空気感を撮っていくみたいなことですから、ある意味ではディレクションのしようがない。事前にある程度話し合えば、あとは現場での観察と発見、直感でダイナミックに突き進んでいける。

たとえば、「暗いはしけ」っていうフォトストーリーを雑誌(「non-no」1977年)で連載したんですけど、これは五木寛之さんがこのために書き下ろした小説をもとにしたものでね、石岡さんと一緒にリスボンに行って撮影したんですよ。

――ぜいたくな企画ですね。書き下ろしで海外ロケなんて。

ファッションとか広告のロケだったら僕もそれよりもっと前から海外でやってましたけど、雑誌のフォトストーリーでここまでやるのは珍しいですよね。

リスボンに滞在している売れっ子の作曲家が、夜にファド(ポルトガルの民族歌謡)を聴きに行ってある女性に出会い、そのまま一緒にドライブに出かけて海辺で愛をかわし、夜明けに事故で死んでしまう――といったストーリーです。

モデルはイラストレーターの湯村輝彦さんで、女優はパリでオーディションした舞台女優をリスボンまで連れて行ったんだけど、もう夜も朝もなく撮影してましたね。映画を作るように撮りながらドラマを仕立てていく、という体験はとても面白かった。パルコをやったのはそのあとですよ。

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――「アサヒカメラ」の石岡さんとの対談でも、その撮影の話をされていますね(リアルタイムフォトグラフィー「操上和美とその写真の世界」/1976年)。「時間が許す限り撮りまくっても、撮りきれていると思えなかった」と操上さんはおっしゃってます。

そう、あのとき僕が感じたのは、「終わりがない」ということ。小説って無限のイメージを持っているので、文字の行間に潜むイメージを映像でどんどん膨らませていける。

たとえば海岸でのラブシーンでも、そのあとすぐに二人は死ぬことになっているわけだから、そこは相当濃くならなきゃいけない。だから湯村さんにもフランス人の女優にも覚悟してもらって「とことんいくよ」って言いました。「死ぬんだぜ、このあと」って脅したり(笑)。勢いにノってがんがんやっちゃった。ヌードの予定はなかったんですけど、最後は彼女も裸になり、すばらしいシーンをつくってくれました。

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――熱のようなものがいま見ても伝わってきます。広告にせよ、出版物にせよ全般に勢いがある時代ですね。

あの時代はね、だいたい成立させたんです。「これだ」って言って腕力的に。石岡さんとの仕事ではないけど、ソニーのジャッカルなんかも結構ダイナミックなことをやってました。

広告も変わりましたよね、現場が。いまはデジタル撮影が多いですから、撮った映像は同時にラインでモニターに送る。アートディレクターもクライアントも、その映像を見ているわけですよ。で、「いいね」って言ったり、「違うかな?」とか言ってるのが聞こえてくるわけ。それ、すっごい邪魔なんですよね。感覚の集中が鈍る。

選ぶときも、撮った全体を向こうは見ているので、「クライアントが『もうちょっとこういうのも撮れないかな?』って言ってるんですけど……」ってADが言ってくる。最終的に使うかどうかは別として、言われればそれはそれでやるしかないんだけど。

――何が撮れているかわからないからこそドキドキできる部分が大きいというのはありそうですね。現場での全員の緊張感が違うというか。

そう、あの頃は現場でオレがOKと言ったらそれはOKですよ。「自分が撮った感覚で撮れた」と思えればいいわけだから。

選ぶときも、何百枚撮ろうが削っていくんですね。特に昔はポジですからいいものだけを拾って、ポスターに使うんならB倍くらいまで大きくプロジェクションして何度も見て、「これ」って決めたらその1枚を渡す。「もっとほかにないんですか?」なんて言ってきても、「いくらでもあるよ。でも、オレが選んだのはこれだから」って言って通った時代です。

――石岡さんとの仕事でもそうだったんでしょうか。

いや、たとえば石岡さんだったら、「クリちゃん、そんなこと言わないで! もうちょっと、もうちょっとだけ見せてよ」なんて(笑)。「わかった、わかった」って言うしかないよね。

まあ、彼女なら間違った方向に行かないから。「オレはこれが一番だよ」って言って5枚なら5枚を見せて、1~5番までを書いて渡す。でも、「レイアウトをしてコピーを入れてみたら、やっぱりこっちのほうがいいわ」というのであれば、それは任せます。

でも、相手によっては、いっぱい渡すとどこに行くかわからない。絞っておかないと、だれかがこう言ったみたいな話になってどんどん動いていって、自分のものでなくなるおそれがある。「あんなに撮ったのに、1枚しかくれないんだよね」ってよく言われたんだけど、「だって、使うの1枚だろう?」って。

――その1枚にかける何かが最終的に見る人に伝わるものだとも思うんです。その意味では、映画「イノセント」(監督ヴィスコンティ)は奇跡の1枚ですね。石岡さんも「私のイメージがパーフェクトに表現されていた」と言っていたようなんですが。

あれは結果的にね、撮れたんですけど、こんなにうまくいくとは思ってない。ほとんど偶然ですよね。三角関係を作ろうってことで、モデルに布をかぶせて風で飛ばしているだけのことなんですけど、布の動きと男女の表情。当時はフィルム一発ですから。

やってみないことにはわからないし、行って初めて気づくことも多いわけで、現場ってそういうものですよね。

「流行通信」でイッセイ・ミヤケの企画(「最初の晩餐」)をやったときはニューヘブリデスって島で撮ったんですけど、このときは洋服を、ただファッションぽく見せても面白くないから遊びのシーンを入れようということで、いろんなことやったんですよ。黒ブタをシャンパンで洗おうって僕が言い出してみんなで面白がってやったり、生きたコウモリを連れてきたり。

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――今日はいろんなお話をしていただきましたが、改めて操上さんにとって60年代、70年代というのはどんな時代でしたか。

自分が伸び盛りの時期と日本が力を持ち始めた時期がシンクロしたのは、幸運でしたよね。たとえば60年代後半なら、ベトナム戦争末期、いわゆるフラワーチルドレンとかヒッピーカルチャー的な、そのニュアンスを日本の広告の中に匂いとして取り入れようとしたり、どんどん前に進んでいけたんです。

そうやっていろんなことをわりと自由にやれたんだけど、クライアントを説得するのはやっぱり大変なんですよ。パルコだと石岡さんだけど、それ以外のクライアントだと僕も企画から演出、撮影、編集まで全部自分でやってましたから、相手を説得しないとダメなんですね。僕らが仕事を始めたときはまだ1ドル360円の時代で、海外ロケに行くためのお金もすごく大変だったんだと思います。

まあ、日本のエコノミーもバーンと上がってるときで、そういう時代にダイナミックに動けたという感じはありますよね。で、積極的になんでも壊していこうと。

――「壊す」ということは、やっぱり大事なことですか?

うん、「自分の意識を壊す」ってことなんですけどね。そうしないと、人間って小さくまとまりたがるじゃない? 上手にやろう、賢くなろうって。発見し、三段跳びをしないと、前に進めませんよね。

さっきのフェイ・ダナウェイやドミニク・サンダもそうですけれど、それまで日本の広告に出ることがなかった外国のスターたちとも互角に仕事をしなくてはならない。そのためには感覚を研ぎすまして、いろんなものを日々見て、感じたことを自分の血と肉に変えていかないと。だから映画でも本でも美術でも、やたら見てましたよ。

感覚というのは、開拓すればいくらでも広がっていくものだから。ようするに自分にないものを自分の中にいっぱい取りこんで、引き出しを増やすトレーニングですよ。あの時代がなかったら、僕もこの歳でまだふつうに仕事を続けている、というふうにはいかなかったかもしれない。

――現場が変わったというお話もありましたが、2010年代は以前に比べてやりづらいものですか。

いや、「昔はよかったね」というのはないんですよ。どんな時代でもその時代の価値観やその時代のクリエイションがあるから、努力してそれを探すしかない。

いまを動かしている原動力やカルチャー、要求されている感覚を自分のものにしないと、いまの仕事はできないじゃないですか。だから僕はいまだに映画だっていっぱい見るし、本も音楽も。芝居にもしょっちゅう行く。「オレ、昔すごかったんだよね」なんて言ったって、なんにもできないですよ。いまのカルチャーそのものにまみれながら自分も作り出していかないと。

努力しないといけないですよ。いつまでたっても。やっぱり努力ですよね。さっき話に出た「アサヒカメラ」の石岡さんとの対談でも僕言ってますけど、コツコツやらないとダメなんです。そうやって時代に深く深く入って行かないと。

前に向かって一歩を踏み出すっていうんじゃないんです。深く入ることによって、それがエネルギーになってまた前に行ける、という意味ね。芝居でもなんでもそうだと思いますけど、「これで終わり」ってことがないじゃないですか。写真もカシャっと撮ればカメラは置ける。でも、また撮らなきゃいけない。そうやって続いているんだから、完成はないんですよ。

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「完成はない」という操上の言葉から、石岡が私のインタビューで話してくれた「すべては試みの途中」という言葉を思い出した。「深く入ることで前に進む」という哲学は、時代をこえて普遍のものづくりのスタンスだと感じた。本当に残るものとはそういうところから生まれるものかもしれない。

その意味では操上が言うように「昔はよかった」ということはなく、時代に流されず時代の深いところとつき合っていくことが、前に進むために必要なことだと思われる。

操上と石岡による「アサヒカメラ」の対談(1976年12月号)より少し抜き書きしてみたい。40年前の対話だが、いまのことのように読むこともできる。ガラッと変わったように見えて、時代は同じところをグルグル回っていたりもする。

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石岡 操上さんの仕事は雑誌の一頁のような小さな仕事でもすごくていねいにしているように思うわ。そして、その一つ一つの仕事に必ずキラッと光るものがあるんですね。(略)人から巧い写真家と言われることは心外ですか。

操上 巧い人は他に沢山いますよ。プロ仲間の話をきいているとみんなデータがしっかりしててね、極端に言うと目をつぶっていても写ってくるほどちゃんとデータが揃っている。(略)僕にはそれがないわけ。毎回、毎回写っているのか、いないのか見当がつかないんです。僕が必ず目を見開いて見つめていないと確実に失敗するんです。
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石岡 自分のスタイリングを決めてしまわないという考え方には共鳴するわ。(略)一回一回ためしながらやっていくやり方はすごく大変だけど、楽しみな道だと思うわね。

操上 そういうふうにやっていくとここちよいわけね。毎日、毎回発見するものがあるし、それに対して新しいアイディアが浮かぶときと、浮かばなくて強引にねじ伏せているみたいなとこをミックスさせていてね。写真が自分にとって生理的にここちよい状態になるわけ。

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石岡 例えば、パリで何かがはやっている。そのファッション写真をそっくりそのまま真似しているものが氾濫している。ところが、一方でそれに全く犯されていない写真もあるわけ。でも、そういうものが見えていないのね。

操上 やっぱり惑いの文化ですね。写真家も惑わされ、エディターも惑わされ、依頼主も惑わされる。くり返しでしょ。

石岡 (真似ごとや)何か形式の写真が氾濫していて、本音の叫びがないっていう感じがするんだけど。(略)外的なものとの比較で自分が右往左往していくっていうことをやると相当しんどいことだと思うのね。もうちょっと地味なところで捉え直した方がいいのかもしれないのね。

操上 写真というのは地味なものですよ。スタンドプレーじゃなくて、コツコツとやっていくものだね。

※次回は7月中旬に更新の予定です(公開情報は以下FBページにてお知らせしています)

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