EIKOTIMELESS 石岡瑛子とその時代

文・取材:河尻亨一

# 21 撮影前日、深夜のハプニング(インタビュー:十文字美信氏)

yasagurete PARCO(1980)


次に訪れたのは、写真家・十文字美信氏のスタジオだった。十文字は現在、鎌倉に拠点を構え、写真家としての活動のかたわら、ギャラリーに併設されたカフェ経営も手がけている。店の名前は「Cafe bee」という。

鎌倉駅を降り、土産物屋や観光客でごったがえす小町通りを鶴岡八幡宮に向けて5分ほど歩き、途中小さな道を脇に入ってすぐの場所に、そのギャラリーとカフェはある。

十文字美信(1947年横浜生まれ)は1971年に独立、雑誌「カメラ毎日」に発表したデビュー作「untitled(首なし)」で高く評価される。これは被写体の首から下を撮影したポートレイトシリーズで、「見えないものを写すために写真はある」と語る十文字の出発点となった作品だ。

十文字はその後も「自身の記憶」や「人間」「日本人の美意識」など、時代によって様々なテーマで写真を撮り続けている。
十文字美信公式サイト

代表的な作品集に、ハワイの日系一世たちを撮影した『蘭の舟』(1981年)、インドシナ半島の山岳地帯に住む少数部族の村落で生活を長期間共にし、そこでの発見を写真と文章に凝縮させていった『澄み透った闇』(1987年)、茶室や茶道具と現代の風景を対照させることで日本の美の奥底を見いだそうとした『わび』(2002年)などがある。

そういった作品群から写真をセレクト、再構成し一冊にまとめあげたものが『感性のバケモノになりたい』(2007年)である。十文字の作品に関しては、多くのレビュー・評論が書かれ、たとえば以下の記事は読み応えがある。
松岡正剛の千夜千冊「澄み透った闇」

作品としての写真だけでなく、十文字は広告のスチール、ムービーも数多く手がけてきた。資生堂シフォネットの「ゆれる、まなざし」(1976年/ AD:鬼沢邦 モデル:真行寺君枝)がもっとも有名だと思うが、いまなお第一線で様々な企業のキャンペーン等の撮影を精力的にこなし続けている。近頃では「金麦」(サントリー)という発泡酒の広告を街中やテレビで目にした人は多いだろう。

最初に十文字に広告写真のオファーをしたのは、資生堂のアートディレクターだった太田和彦氏である。いまでは居酒屋探訪家としても著名な太田は、十文字が雑誌「anan」で撮影した「PINK」というページを見て即座に十文字に声をかけた(1971年/イッセイ・ミヤケのフォト企画)。そのあたりの経緯は『異端の資生堂広告/太田和彦の作品』に詳しい。十文字は同じく「anan」で山口小夜子のモデルデビュー写真も手がけたという。

anan 雑誌「anan」(1971)より

その頃は写真がアツい時代だった。広告表現の核となる牽引力として考えた場合、1960年代がグラフィックデザイナーの時代とするなら、70年代は写真家・イラストレーターの時代だった。アートディレクターたちは、みずからのイメージを形にできる、いや、それを超えたものを共作できるコラボレーターとしての写真家を懸命に探していた。

(※その後80年代がコピーライターとCMディレクター、90年代はクリエイティブディレクターとCMプランナー、2000年代後半からはインタラクティブの時代と言うこともできる)

広告・デザインにおける写真表現の開拓に60年代から意欲的に取り組んでいた石岡瑛子が、十文字美信という新進気鋭の若手に関心を示さないはずはない。しかし、石岡瑛子と十文字美信がタッグを組み、形になった仕事は2つしかない。

資生堂をはじめ数々の仕事を世に送り出した横須賀功光、前回インタビューした操上和美や石岡自身より、十文字はひと世代下というのが、両者の仕事が少ないひとつの理由だろう。石岡は80年代初頭に渡米するため、その後は日本人写真家との仕事の機会が減ったということもある。

だが十文字美信は、30年前のそのたった2回の仕事を鮮明に記憶していた。ひとつは伊藤佐智子氏の章でふれた「流行通信」の企画「行き行きて重ねて行き行く」(私のファッションイメージ/1978年)である。
「シャッターが切られた瞬間、スタジオは劇場となった」

初めて石岡から声がかかったときに感じた印象を十文字は次のように振り返った。

「その当時、石岡さんはアートディレクターとしてはトップクラスでしたから、『まだ20代半ばの新人に声をかけて、よく仕事をしようというふうに言ってくれたな』というのが、その当時の一番大きな感想です。資生堂にしてもパルコにしても、横須賀さんとの仕事が多かったですから、この仕事では横須賀さんの世界じゃない何かを求めているんだろう、というふうにも思いました。

会ってみると、彼女がやりたがっていたイメージはいわば京劇なんですね。石岡さんが感じた中国のファッションの面白さみたいなものを、日本の子どもをモデルに京劇の世界観でやってみたいという話でした。

でも撮影に関しては、だいぶまかされたと言いますか。モデルもプロの子役を使うと面白くないから、近所にいるような子どもにしたいと提案したところ、女の子は石岡さんの姪っ子、男の子は僕の家の近所の子にお願いすることになったんです。

それよりちょっと前まで、『花椿』(資生堂のPR誌)の表紙を僕がずっと担当していたのですが、そのときにスタジオに土を敷いて撮影するということをやってましたので、それを提案したら『そこはまかせるから』ということでしたね。 リアルな空間ではない、でもスタジオの空間でもない、どっちとも言えないような空間で撮ってみたいと思っていたんです。畑のような黒土を敷いて、そこに石岡さんは蓮の花をたくさん植えたいというアイデアを提案してきました。

石岡さんはね、強い性格というのかな? それは一緒に仕事をしただれしもが感じてるんじゃないかと思いますが、自分がこういうことをやりたいということに対しての思いの強さというのはすごいものなんです。

でも、絶対他人の言うことを聞かないというわけじゃない。自分が納得すればむしろウェルカムなんですよ。彼女が『これはいける』と感じたことに対しては、かなり積極的に受け入れる。あれはバランスなのか直感なのか? 匂いのようなものを察知する能力に抜きん出たアートディレクターでしたね」

yukiyukite 「行き行きて重ねて行き行く」(1978)

作品集『Eiko by Eiko』にも収められているこのファッションフォトシリーズは、欧米圏で非常に評価が高いという。実現はしていないが、このシリーズだけで作品集を作らないか? というオファーも石岡には来ていたようだ。

しかし、十文字がこのとき以上に強烈に記憶しているのは、もうひとつのほうの仕事、パルコの「宿愚連若衆艶姿(ヤサグレテアデスガタ)」と題されたキャンペーン(1980年)である。十文字はこの撮影が「石岡さん自身それまで経験したことがないような強烈な仕事だったのでは?」と言う。いったいどのような現場だったのだろう?

——この仕事はどのあたりが強烈だったんですか?

突然予定が変わったんですよ。石岡さんの中でも非常に珍しい仕事だったんじゃないかと思います。これで彼女は窮地に陥ったと言えるかもしれない。つまり、もともとああいう企画ではなかったんです。石岡さんが当時、非常に気に入っていたニューヨークのイラストレーターがいて、その方にかぶりものを頼んでいたんですね。そのかぶりものをズラッと人にかぶせて撮影しようということで、ニューヨークに行きました。

彼女は前もってロケハンもして、打ち合わせもしてましたし、僕も実際にイラストレーターに会いました。かぶりもののスケッチも見せてもらって、じゃあ、こういうふうに撮影しようという段取りを具体的に詰めていたんですね。

ところが撮影の前々日に、そのイラストレーターから手紙が来たんですが、そこにはこんなことが書かれてた。「日本の資本主義文化に対して、私は非常に疑問を持っている。そういう大きな資本に対してダメージを与えたい。ゆえにこの仕事はキャンセルする」と。日本の企業を困らせてやろうとしたんでしょう。

——つまり、撮影ができないということですね? 準備が全部おじゃんというか撮るものもない……。

ええ、石岡さんはものすごく困ったと思います。すぐにパルコの専務(増田通二)に国際電話をかけて相談してましたから。で、「なんとか作ってきなさい」ということを言われたんじゃないですかね?

その後スタッフに招集がかかって、僕はCMとグラフィックの撮影でCMの演出が川崎徹さんだったんですけど、3人で「どうする?」ということを話した結果、川崎さんは「これは石岡さんの仕事だから、自分は石岡さんが決めたことをやります」と言って、ホテルの部屋に帰っちゃった。

—— 大ピンチですね。撮影後のスケジュールも決まっていたでしょうから。その後どうなったんですか?

石岡さんはしきりに「十文字だったらどうする?」と僕に聞くわけです。で、頭をかきむしりながら「どうしよう? どうしよう?」なんて、クマみたいに部屋中うろうろしてたんですけど、「とにかく何か考えて。何かアイデアないの? 何か出して!」と言ってトイレに入ったきり、出てこなくなっちゃったんですよ(笑)。

正直な人ですよね。すごくノっているときでも窮地に陥ったときでも、ストレートというか赤裸々に自分を出してくる。「すべての仕事でそうだったか?」に関しては僕はわかりませんが、ものを作るということに関しては全然カッコつけない。そこが面白いというか、かわいいとさえ思いました。彼女の心模様が手に取るようにわかるような気がして、「なんとかしてあげたい」という気持ちになってしまった。

——ということは、そこからどうするかを考えたんですね?

案をふたつ考えました。ちょうどその撮影のとき、ニューヨークに向かう飛行機の中で新聞を読んでいて、そこに女性のボディビルダーの記事が載っていたんです。いまは全然珍しくないんですけど、日本では当時考えられなかったことで、こういう人がもしニューヨークにいるのなら、この際出演してもらうのはどうだろう? というのがひとつ。

もうひとつは、モデルじゃない素人の若い人にメイクをして撮影するアイデアでした。ニューヨークに着いてからイラストレーターのペーター佐藤さんのスタジオを訪問したのですが、彼が普通の素人の若い人にメイクをして、それをポラロイドで撮ってスタジオに貼ってあるのを見て、「面白いな」と思ったんです。で、「僕だったら、そのふたつのどちらかでやってみたい」って話しました。

石岡さんは即決でしたね。「わかった。いまからペーター佐藤のスタジオに行って、ニューヨークの若い子を頼んでメイクして撮ろう」と。それが撮影の前日の夜中ですよ。しかも彼女はその場でこうも言ったんです。「もし、いまからそれを実現させようとすると、この仕事は十文字には無理だと思う。ニューヨークのカメラマンを使いたい」って。

——また思いがけない方向に話が行きますね。アイデアを考えてほしいと言われて考えたわけですから。十文字さんはどうされたんですか?

「じゃあ、僕はいまから帰国しますから」と言って、助手に機材をまとめるように指示したり荷造りをしてました。そしたら部屋に電話がかかってきて「やっぱり十文字でやるから、帰らないでほしい」と。

そこからモデル探しです。深夜にいまで言うクラブに2人で行き、若い人を7人探し出したんです。「あの人はどうだろう?」と声をかけていったんですが、僕のほうはモデル探しが終わってから、助手とスタジオに入ってライティングです。組合の規定で夜の8時以降は向こうのスタッフを使うと料金が3倍くらいになってしまうので、2人でやるしかなくて。作業が終わったときは朝でした。それで僕はいまでも忘れられないんですよ、この仕事が。