EIKOTIMELESS 石岡瑛子とその時代

文・取材:河尻亨一

# 24:1960s デザイン・フリークスの時代に【インタビュー松永真氏Ⅰ】

銀座2

「マツナガくーん」。どこかから大きな呼び声が聞こえた。そこは銀座四丁目の交差点。呼び止められたのは松永真である。「だれだろう?」。松永が声のするほうへ目を向けると、道路の向こう側から手を振る石岡瑛子の姿が目に入った。2000年代も後半に入ったある日の昼下がりのこと。

「まったく恥ずかしいっちゃありゃしないよね。お互いもういい歳なんだから」。松永はそう言って懐かしそうに笑った。私が松永に出会ったのは「松永真のフリークス展」の会場である(2015年)。

松永は日本を代表するグラフィックデザイナーの一人。ベネッセや国立西洋美術館、カルビーのロゴ(CI)などをデザインしたことでも知られる。日常の生活に馴染み深いプロダクトで言うと、横縞のラインが特徴的な「スコッティティシュー」や資生堂「UNO」のパッケージなども彼の仕事だ。

しかし、この「フリークス展」には、グラフィックデザイナーとしての彼の仕事から受ける印象ともまた異なるドローイング作品シリーズが展示されていた。デザイナーによる現代アートの個展である。松永はこの「フリークス」シリーズの制作を1995年に開始、その後も折りに触れ新作を発表し続けている。

松永自身の言葉を借りれば、これは次のような趣旨の創作活動である。

「『フリークス』とは『気まぐれ、酔狂、自由気まま』を意味する。デザインの仕事が理性と客観を要求される昼間の世界とすれば、衝動的に生まれる『フリークス』は直感と本能が要求される夜の世界と言える。目的のない創作は、自由で、楽しく、そして厳しい」(第506回デザインギャラリー1953「松永真の新作フリークス展――フリークスという名のブロンズ彫刻とドローイングの世界」より)

彼はデザイナーとしての自分は、石岡瑛子にとって"弟分"のような存在だったのでは? と考えている。

松永は1964年に東京藝術大学デザイン科を卒業、資生堂に入社する。そのときの3つ上の先輩が石岡瑛子だった。当時の資生堂では新聞やポスター、パッケージ、店舗などを手がけるデザイナーたちが約70名、ひとつの大部屋で仕事をしていたというが、同じ藝大卒であったためか、松永はこのとき、石岡と並びのデスクで仕事をすることになった。

石岡はその頃20代なかば。まだデザイナーにとっての登竜門とも言える日宣美でも受賞しておらず、世間的には無名だった。もちろん、松永もそうだ。

前の2章は、石岡が手がけたパルコのキャンペーンなどが話題となり、彼女が「女性アートディレクター」として時代のトップランナーとなっていく1970年代を中心に、石岡とものづくりを共にした人々による数々の言葉を記録した。

だが、その物語には前段がある。石岡にも"サラリーマン"の時代があった。本章ではその1960年代にフォーカスしてみたいと思う。1960年代はある意味70年代以上に、日本のグラフィックデザイナーにとってアツい時代――ということも前章で少しふれたが、その時代についての証言をここでは記録していこう。

2章執筆より2年近く経ってしまったということもあり、少し補足をさせていただく。

「石岡瑛子とその時代」をめぐるこの記録は、必ずしも時系列に流れるのではなく、ときには時間をさかのぼり、ときには時間をジャンプしながら、それらの「時」を活字によって同一平面上にデザインするかのように描いてみたい。NY篇(5章~)からは空間も自在に行き来する書き方になっていくだろう。いわば"フリークス"な伝記風の読み物である。石岡の仕事ヒストリーはそういった自由気ままなスタイルで描くことがふさわしいと思える。話を元に戻そう。過ぎ去った時代を呼びおこすように、松永は記憶を語り始めた。

「彼女は努力家だと思いますよね。あの向学心というのか反骨精神というか。いや、正確には貪欲だと言ったほうがいいかもしれない。言葉は悪いけど欲張りなんですよ、人一倍。

例えば、だれよりも早く外国の雑誌を見ていましたよね。『ヴォーグ』みたいなファッション誌だったと思いますけど、どうやって入手したのか? 僕たちが気づく前に翻訳を手に入れてね。その頃はまだ海外の情報が少ない時代でしたから、洋雑誌を見てそこから様々なことを吸収することが若いデザイナーにとって大切な学びでもあったんです。

浅葉克己がいたライトパブリシテイ(広告制作会社)なんかだと、海外からデザイン雑誌が届くとみんないち早く出社して、いいところを切り抜いて持ってっちゃうって話を聞いたことがあるくらいで」

当時の石岡の仕事で、松永がもっとも印象に残っているのがホネケーキ石鹸の広告である。「ホネケーキ(Honey Cake)」は1958年に発売され、いまも販売されているロングセラー商品。その名にあるようにハチミツを配合し、宝石を思わせる形状と透き通ったエメラルドやルビーなどの色合いが美しい昭和の逸品だ。

1965年、つまり石岡が資生堂に入社して5年目に手がけたのがこのホネケーキの雑誌広告。アートディレクターとして彼女が実質初めて任された、いわば"デビュー戦"にあたる。シリーズで掲載されたビジュアルには何パターンかあるが、もっとも印象的なのはスパッと切れた石鹸のかたわらに、ナイフが置かれているもの。コピーは「ホネケーキ以外はキレイに切れません」(コピーはライトパブリシテイの現CEOである秋山晶)。ケーキに見立てた石鹸の品質の高さをアピールする実証広告にもなっている。

Honeycake.001

石岡と一緒に仕事をした人の中には、センセーショナルな話題を巻き起こしたパルコや、アカデミー賞を受賞した「ドラキュラ」の衣装などより「このホネケーキの雑誌広告が好きだ」と語る人も多い。松永もその一人だ。

ホネケーキの制作をめぐっては次のようなエピソードがある。石岡は、撮影する石鹸を自宅に持ち帰り、冷蔵庫で大切に保管していたという。なぜそんなことをしたのだろう? 松永にそのエピソードについて尋ねてみたところ、次のように推測した。

「あれはたぶん、撮影が夏だったんじゃないかな? 石鹸が溶けるのを避けようと思って、冷蔵庫に入れたんじゃないですかね? 石岡さんのことだから、それをじーっと見ながら、レンズを拭くような革か何かで大事に磨いていたんだと思いますよ。キンキンに冷えると磨きやすいでしょうから。『これが私の最初の仕事だ』と意気込みながら。

これ、私の想像ですよ? でも、そう思うと、とっても石岡さんらしい。姿まで浮かぶんだけどね。あの人はそうやってモチーフに愛情を注ぎこむんですよ。そう言えば、『ふっと見たら、ルビーのようにきれいだった』ってあのとき言ってましたね」

だが、この"初仕事"の裏側にも、「きれい」だけでは終わらない石岡らしい戦いがひそんでいた。カラー印刷がまだかなり高額だったこの時代、ホネケーキは当初モノクロで掲載される予定だったのだという。上司に直訴して「カラーに変えさせた」のは石岡だ。

「宮河(久)さんという課長がいてね、石岡さんも僕も大好きなとってもいい上司だったんだけど、早い話、その人がタジタジだったんです。石岡瑛子のプッシュに。僕は二人のやり取りを見ていたんだけど、もうね、怒り狂ってましたよ。『こんなきれいなものが、なんでモノクロ広告なんですかっ!』って語気荒く。『そこまで言うか?』って思いましたね(笑)。その頃、僕らまだペーペーでしたから『よく上の人にそんなキツい言い方できるな……』ってハラハラしながら見てたんだけど。

ただ、彼女の訴えかけは筋が通っていたね。ホネケーキは美しい、と。これをカラーにしないで、どうするんですか? と。その説得力と迫力はすごかった。で、その宮河さんという課長も人がいいから、『よしよし、わかった石岡くん。ちょっと静かにしなさい。なんとかかけあってみるから』と。

その当時は、かけあってまだなんとかなるような時代だったんです。ところが、石岡さんという人はその一回で、『課長、ありがとうございます。いいものができました』で終わる人じゃないんですよ。貪欲だからね。『よし、うまくいった。もう一発行こう!』と(笑)。それでホネケーキもシリーズ化することになって。このシリーズがADC(東京アートディレクターズクラブ)で賞をもらっちゃうわけ。まあ、宮河さんという人も人物だったよね。見た感じ、サザエさんに出てくる波平みたいな人なんだけど、石岡さんも慕ってました」

課長ではなく、デザイナーとしての宮河はどんな人だったのだろう。この人も石岡や松永と同じ東京芸大(東京美術学校)卒だが、多摩美の教授を務める山名文夫が宣伝部制作室長だったためか、松永によれば当時の資生堂では芸大卒は多くなかったという。宮河は油絵科を優秀な成績で卒業したそうだが、折しもそれは経済状況が悪く、自由な表現活動も許されなかった戦時中のこと。宮河は絵画の道を断念し、図案家(デザイナー)として資生堂に入社した。

「嘘がない人」だったと松永は言う。宮河が退社するとき口にした言葉を松永ははっきり記憶していた。

「松永くん、僕はね、芸大で一番だったんだよ。絵では食っていけないもんだから、一度資生堂に入って余裕ができたらまた絵を描こうと思っていたんだけれど。でもね、僕がその頃相手にもしなかった連中が、僕が資生堂にいるあいだにずっと絵を描き続けて、もうその人たちにかなわないんだ。人って才能が大事だけど、才能だけでもないんだよね」