EIKOTIMELESS 石岡瑛子とその時代

文・取材:河尻亨一

# 25 「デザイナーは我慢しちゃダメだよ」と写真家は言った【松永真氏インタビューⅡ】

当時、資生堂には山名文夫をはじめ著名なデザイナーたちが在籍していた。その人たちは"絵も描けるデザイナー"である。石岡や松永の上司、宮河がそうであったように、絵描き上がりなのだ。そして1960年代以前の広告のデザインでは、イラストが写真以上に幅を利かせていた。山名文夫が描く"モダンな乙女"のポートレイトなどで、戦前より独自のブランドイメージを広告で築き上げることに成功した資生堂では特に。

少し脱線するが、山名文夫という人物も非常に興味深い。

山名は幼い頃よりビアズリーや竹久夢二といった耽美的な作家に影響を受け、「プラトン社」という出版社で図案家・挿絵作家としてのキャリアを積んだのち、1929年(昭和4年)資生堂に入社。時代はすでに昭和であったが、まだ戦時色の薄い頃。大正時代に流行したモガ(モダンガール)を思わせつつ、それでいてそこはかとなく和の情緒や色気も感じさせる女性たちの線描画を資生堂の広告を通して描き、時代の心をつかんだ。

その後山名は、亀倉雄策らとともに名取洋之介の「日本工房」に参画、伝説的雑誌『NIPPON』の制作にも関わっている。戦後は多摩造形芸術専門学校(現・多摩美術大学)での指導に力を入れていたが、ほどなく資生堂にも復帰した。

石岡や松永が入社した当時すでに60歳を超えていたが、宣伝部制作室長として資生堂の広告(ブランド)を統括していた。1950年代には前章でも触れた「日宣美(日本宣伝美術会)」設立に亀倉雄策、早川良雄らとともに携わり、初代委員長に就任している。

ようするにとても偉い人。イメージとして語るならば、当時の広告・デザイン界の"ラスボス"のような存在かもしれない。入社して間もない松永には、山名文夫という人が次のように映っていた。

「非常に寡黙な方でしたね。それが僕には怖かった。山名さんと言えば亀倉さんよりもうひとつ上の世代の方でしょう? それで恐れ多いっていうのもあるんだけど、デザインしたものを見せに行くと、『よろしいんじゃないでしょうか』ってそれだけだから。何にも言わないんだもの。だから言われる前に、自分で反省しちゃうわけ。何も指摘されてないのに、途中で『あ、ちょっと気づきましたんで……』なんて言ってまた持って帰っちゃう。寡黙ってすごいなと思いましたよね」

一方で、1950年代も後半になると資生堂でもイラストではなく、写真を効果的に用いた広告も増え始めていた。亀倉雄策による東京オリンピックのポスターがそのひとつの金字塔であるように、「写真を用いた先進的な表現」は、石岡や松永ら当時の若手デザイナーにとっての課題でもあった。

写真だけでなく、映像も盛り上がっていた。日本でテレビの放送が始まったのは1953年。TVコマーシャルは先端の広告メディアであり、実験的なものも含めて様々な試みが行われていた。

写真と映像――その時代を牽引した二人の男の名を松永は口にした。一人は写真家の横須賀功光。そしてもう一人はCMディレクターの杉山登志。二人はアートディレクターである石岡にとって"相棒"とも言える存在だ。1973年、天才、鬼才の名をほしいままにした杉山がみずから命を絶ったのち、石岡はみずから『CMにチャンネルをあわせた日 杉山登志の時代』という書籍を企画・編集している。

その杉山については別章をもうけて触れることとして、ここでは再び横須賀について。

第2章でも書いたように、60~70年代、資生堂からパルコへとステージは変わっても、石岡の"同志"のように様々な仕事をともにしてきた横須賀功光。故人である彼の話を直接聞くことはできないが、石岡瑛子とその時代を語るに欠かせない写真家である。石岡と横須賀の仕事は1960年代から始まっていた。「ホネケーキ」の撮影も横須賀である。

それにしてもフリーの写真家である彼がなぜ資生堂に出入りするようになったのか。松永はその経緯を話してくれた。

「資生堂はイラストレーションでずっときてましたからね。実際、水野卓志さんという山名さんのあと継ぎのような方もいるわけですが、水野さんの先輩で僕や石岡さんの上司でもあった中村誠さんはね、『僕は絵が描けないから』と。そういうこともあって写真の時代が来るわけです。で、当時資生堂にいた村瀬秀明さんというデザイナーが連れてきたのが、まだ大学生だった横須賀功光というフォトグラファーなわけ」

石岡と横須賀の出会いも1960年代前半だろう。年齢的には石岡のひとつ年上だった横須賀は、日大の学生時代から資生堂の社内報「ハウスオーガン」の仕事に起用されるなどし、卒業後も資生堂の仕事を手がけていた。松永はその人柄を次のようなエピソードで偲ぶ。

「横須賀さんって、とっぽい人っていうのか、なかなかオシャレな色男でね。僕は大好きな人でした。なぜ大好きだったかと言うと、あの当時『松永くん、僕は君と一度飲みたい。いずれ資生堂を背負う男だから』なんて言ってくれたから(笑)。で、赤坂に飲みに連れて行ってもらって、高い酒を飲ませてもらったんだけど、いきなりこんなこと言って絡んでくるわけ。

『松ちゃん、なんでそんな格好してるの? 芸大卒なのになんでウンコ色ばっかり着てるの? 資生堂のデザイナーなんだからさ、もうちょっとカッコよくしなさいよ!』なんて。それで僕はね、『いや、カッコいい服着たいんですけど、僕なんて横須賀さんの真似をしたくてもできないよ。胸毛だってないし、ほら、見てください私の丸い顔』と言ったら、さすがに彼も吹き出してね。

この話には続きがあって、そのあとロケ先で一緒にブティックに入ったときのことですよ。横須賀さんが『この服、いいねえ』と言うのを、僕も横から『いいなあ』と思って見てたんです。でも、こっちはまだペーペーですから、で、『買うとしたらこれじゃなくて、この安いほうかなあ……』なんて思案してると、『松ちゃん、なんだそれ。さっきこっちに見とれてたじゃない? 我慢しちゃダメだよ』って買ってくれたんですよね。でも、おごってやるみたいなそぶりは全然見せなくて。でも、返せなんて言わないのはわかってて、そういうシャイなところも大好きでした。

『お前、デザイナーだろう? なんで自分が「いい」と思ったものをサッと買わないんだ?』と。本当の意味で贅沢な人なんですよ。まあ、石岡さんともいろいろバトルはあったと思いますね。二人ともケンカ早いから(笑)。でも、彼女は上手にコントロールしていたんじゃないかな?

そう言えば、石岡さんが日宣美賞を取ったレコードジャケットの裏付けをつくった高田修地という人も、僕は大好きな先輩でね。多摩美を出た人で何をやっても器用なんだけど、『僕はいいんだ』っていうのが口癖で。その人がまた酒が好きでね。アルバイトで地図を作る仕事を引き受けたりして、僕も呼ばれて手伝いに行くんですけど、いつも途中で酒盛りして寝ちゃうんですよ。で、バイト代が入ったら『松ちゃん、バイト代が入ったよ』って半分くれるの。

高田さんが亡くなったときに、僕はご遺族に『僕はいいんだ』という言葉を贈りましたけど、そうやって他人のために力を貸してくれる人が世の中にはいて、仕事ができていくというところはあるんですよ」

高田は首都圏「JR路線図」の原型のデザイナーとしても知られる(1975年)。資生堂退社後は、武蔵野美術大学で教鞭をとり多くのデザイナーを世に送り出すかたわら、「手仕事」のすごみを感じさせる数々のデザインを手がけた。

松永は穏やかにそしてときには笑いを交えながら、過去を振り返っている。多彩な若い才能がぶつかり合う様は、まさに"デザイン梁山泊"と言えるだろう。しかし、猛者たちが集う場では、いつの時代も「食うか・食われるか」のバトルはある。それをオブラートに包みながらなんとかやっていくのが世の中というものであるが、過ぎ去りし日を懐かしむ松永の言葉の随所には、プロフェッショナルの厳しさも潜んでいた。

石岡は「食う」ほうの人だったのだろう。人に「食われる」などという言葉は彼女の辞書にない。「私はいいのよ」を口にすることはない。我慢をすることもたぶんない。