EIKOTIMELESS 石岡瑛子とその時代

文・取材:河尻亨一

# TIMELESS 外伝1:CMディレクター杉山登志とアートディレクター石岡瑛子(前編)

CMにチャンネル

1964年。石岡瑛子がコピーライターの秋山晶や写真家の横須賀功光と「ホネケーキ石鹸」の仕事をしている頃のこと。

資生堂に出入りをしていたあるCMディレクターが、いきなり瑛子に声をかけた。いつの間に部屋にいたのだろう? その男は瑛子のデスクに後ろから近づくと、耳元で囁くようにこう言った。

「劇場用の35ミリカラーフィルムを手伝ってもらえない? 君のアイデアでやってみたいんだけど」

瑛子は戸惑った。その人のことは知っている。日本天然色映画(日天)というCM制作会社に所属するディレクターで、資生堂の仕事を多く手がけていたため、その顔は何度も目にしたことがあった。長身ではないが痩せて精悍、色が黒い。その物腰は人当たりの良さを感じさせると同時に、どことなく近寄りがたいような空気も身にまとっていた。

CMディレクターというのは、映画における監督の仕事をするポジションである。

それまで挨拶くらいしかやり取りはなかった。その男は宣伝部にやって来ても、だれかと無駄話ひとつするでもなく、用事を済ませると風のように立ち去ってしまう。写真家の横須賀とは違ってコマーシャル畑のクリエイターは、グラフィックデザイナーとの接点があまりない、ということもあった。

資生堂宣伝部には日々、いろんなクリエイターが出入りする。横須賀や美大予備校時代から顔見知りだったファッションデザイナーの三宅一生、造形作家の伊藤隆道らとはすぐに意気投合した瑛子だったが、この人物についてはいまいち謎のままだった。

だが、彼をめぐる様々な噂は聞いていた。人によってはこの男を"鬼才"と呼び、"CM界の黒澤明"と褒めちぎる者さえいた。彼の仕事は日本人として初めて、カンヌ国際広告映画祭で受賞したという。気になる人ではあった。

男の名は杉山登志という。

杉山のオファーに瑛子は興味津々ではあったが、いかんせん確信がない。入社から5年、「ホネケーキ」という仕事を任され、憧れの日宣美グランプリも受賞した。デザイナーとしての道行きは俄然明るくなっていたが、杉山が持ちかけたのは劇場用コマーシャル、つまり映像の仕事だ。

どう返事すればいいのだろう? 駆け出しのデザイナーである私にカラーCMの相談をするなんて、なんだか危険な賭けをする人だなあ…。それにしても何の仕事かしら。私の一存で判断してよいものだろうか。

様々に思いをめぐらせながら瑛子がモタモタしていると、杉山はニカッと笑う。色黒のせいか笑うと歯の白さが際立つ。

「いやさ、コンテはもう出来てるんだよ」

先ほどとうって変わってエネルギッシュな声だった。杉山はやおら瑛子に絵コンテを差し出す。そこには瑛子が雑誌の一枚絵として展開しているホネケーキの広告が、90秒のバージョンとして絵コンテ化されていた。

「これをコマ撮りでやりたいんだよね。撮影は石岡さんに見てもらうのがいいんじゃないかと思ってさ」

ここにいたってようやく瑛子は、杉山の意図を理解した。「君のアイデアでやってみたいんだけど」は、彼女をやる気にさせるためのちょっとした誘い文句。ようはホネケーキのCMバージョンをつくるため、この商品の担当アートディレクターである瑛子に協力してほしい、ということなのである。

杉山の誘いに「イエス」と答えてしまったあと、瑛子はまんまといっぱい食わされたような気持ちになった。

コマ撮りということは、アニメーションのようなつくり方をしたいと杉山は考えているのだろう。つまり、映画やCMで用いる35ミリのカラーフィルムを回すのではなく、石鹸やその他の素材を少しずつ動かしながら、ひとコマひとコマ写真を撮っていき、最終的にそれをつなぐことで"動くグラフィック"にしようというアイデアだ。

いったいどれくらいの撮影を行えばよいものか? とんでもなく手間のかかる作業になる。多忙な杉山は長時間の撮影にずっと立ち会うわけにもいかず、撮影監督を瑛子に委ねようと企んだのである。

「撮影はきちんと責任持って、石岡さんのほうでディレクションしてください」

涼しい顔でこう言い残すと、杉山はまた風のように去って行った。

それから瑛子は、新橋にあった日本天然色映画の撮影スタジオに毎日通うようになる。作業は思ったように進まず、徹夜徹夜の日々が続いた。杉山は最初の頃、カメラマンに基本的な指示を出したが、それ以降ほとんど姿を見せなかった。

たまさか深夜現れたかと思うと、高い脚立の上で撮影を指示している瑛子を下から見上げ、「おっ、今日はスカートですか。下からの眺めは格別ですなあ」などと下品なジョークを飛ばしたりした。

長い撮影が終わって最初の試写のとき、瑛子は「わあ、画が動くというのはすごいことだなあ」とただ無邪気に感激していた。その様子を見た杉山は「うん、いいじゃない。いけるよ」と言ってこう続けた。

「音はどうする?」

続けて聞かれた質問に、瑛子は自信なさ気に小声でこう答える。

「武満徹さんにお願いするのはどうかしら?」

武満徹と言えば、当時すでに現代音楽の第一人者と見なされていた作曲家だ。60年代には「切腹」(監督・小林正樹)や「砂の女」(監督・勅使河原宏)など話題作の映画音楽も数多く手がけており、押しも押されもせぬ売れっ子だった。

瑛子は大それたことを言ってしまったような気がして相手の顔色をうかがったが、杉山はことも無げに「じゃあ、頼んでみようよ。こういうのはデッカくいったほうがいいんだから」などと言って、実現してしまった。

完成した劇場CMを観て瑛子は、映像という表現が持つ底知れぬパワーに気づくこととなった。

《シャイな完璧主義者の横顔》

いつの時代もクリエイターという人種には、世間的に見てちょっと変わった人が多いものではある。なかでも杉山登志という人は格別に風変わりなところがあった。短いその生涯は数々の伝説や噂に彩られており、これまで二度テレビドラマ化されている。

その人生や人となりにフォーカスした書籍も何冊か刊行されている。

編集者・CMプランナーの馬場啓一とともに、石岡瑛子も企画から編集にまで携わった『CMにチャンネルをあわせた日ー杉山登志の時代』ほか、『テレビCMの青春時代ーふたりの名演出家の短すぎた生涯』(著・今井和也)、『伝説のCM作家 杉山登志』(著・川村蘭太)などだ。

石岡瑛子には、彼女の人生に多大な影響を与えたであろう出会いがいくつかある。杉山登志もその一人だった。

杉山登志とはどんな人物だったのか? 『CMにチャンネルをあわせた日』を中心にいくつかの資料からエピソードを拾い出しながら、その実像に迫ってみたい。

まず杉山登志は、極度にシャイであがり症である。

創世期の日本のCM業界で、若き日から群を抜いて優れた仕事をし、第一線を走り続けた売れっ子だったわりに、メディアの取材に応じたことが少ない。マスメディアの世界で仕事をしながら、マスメディアが好きではなかった。たまにインタビューに答えることがあっても、取材の途中で明らかに機嫌が悪くなることもあった。

取材を拒絶することで、自身の存在を神秘のベールに包んでおきたかったわけではない。編集者があの手この手でなんとか約束を取りつけ、インタビューに赴いたとしても、雑談のときにはフレンドリーで饒舌だったのに、いざテープレコーダーが回り始めると急にしゃべれなくなってしまう。

業界団体のスピーチでも、「ぜひに」と請われて引き受け登壇し、持ち前の大声で話し始めたまではよかったが、突如として言葉が何も出てこなくなる。しどろもどろになり、致し方なく聴衆に詫びを入れて、そのまま帰ってしまったこともあるという。

一方で、インタビューではなく、雑誌などにみずから執筆、寄稿する類いの仕事は比較的多く引き受けている。その場の空気に左右されず、みずからコントロールできる、つまり"演出"の効くタイプの発信を好んだのだろう。

杉山登志は、なかなかヘビーな酒飲みである。ウイスキーひと瓶くらいなら、ひと晩ひとりで空けたようだ。

北海道にロケに行ったときのこと。撮影が終わってスタッフたちが近所のバーで飲んでいると、ベロベロに酔っ払った杉山と一人のアートディレクターが派手な殴り合いのケンカをおっ始めた。

「なんだと、この野郎! CMをバカにしやがって」
「お前だって、デザインのこと何にもわかっちゃねえじゃねえか!」

結局、杉山とこのアートディレクターは宿の同じ部屋に倒れこむようにダウンし、次の日は何事もなかったように仕事をしていたという。

昭和高度成長期のこの時代、クリエイター同士、酒を飲んでのケンカなんて日常茶飯事だった。だが、杉山には余人にはなかなか真似できない酒の上での奇癖があった。

ロケなどで気に食わないスタッフがいると、深夜先方の部屋へと乗りこんで、寝ている相手に小便をかけてしまうのだ。もちろん、泥酔の上での所業である。広告を依頼したクライアントの中にも、この"ミッドナイトシャワー"を浴びた者がいるらしい。CMづくりについて、たいしてわかっているわけでもないのに、現場でよけいな口出しでもしたのだろうか?

そして杉山登志は、類を見ないほどの完璧主義者だった。

そのすさまじさは、先にふれた『CMにチャンネルをあわせた日ー杉山登志の時代』(パルコ出版/1977年)ほかに詳しい。

本書は、CMディレクターとして脂がのりきった時期であったにも関わらず、37歳でみずから死を選んだ杉山を追悼する書籍で、彼とゆかりのある人々のコメントや寄稿文の再録、傑作CM紹介などで構成されている。石岡瑛子も故人の思い出を執筆し、杉山の家族にもインタビューしている。

この本の中で、杉山がCMディレクターとしてデビューしたばかりの頃から一緒に仕事をしてきた金子秀之(クリエイティブ・ディレクター)が、杉山の仕事の流儀について、次のような証言をしている。

「杉さんと仕事をしていて、気づいた彼の優れていた点は、決して同じものを二度やらないことである。私が、これは昨年と同じでいいよ、と言っても、必ず変えて、新しいアイデアのものをトライした。また自分でラッシュを見て、色が悪かったり、自分の思うように撮れていないと、私に見せる前に、必ずリテイクしていた。

どうもラッシュが遅いな、と思って電話をする。その時に『色が悪いので、焼き直しをしています』とプロデューサーが言う時は、大抵撮り直しをしているのだ。

ラッシュを見て、私なりにこう編集する、と頭で描いていると、大抵それ以上のものをつないでくる。なるほど、こんなつなぎ方もあるのか、と思うことが時々ある。彼の編集は独特で、非常に上手だった」

当時、金子は資生堂に在籍していた(その後、広告代理店に移籍)。広告主側のクリエイティブの責任者として、コマーシャルづくりを推し進めていた人物だ。

《CMをつくっていると馬鹿にされた》

日本でテレビ放送が始まったのが1953年。杉山がCMディレクターとしてデビューしたのは1960年である(日天入社は1958年)。CMディレクターとしての杉山登志のスゴみを実感するためには、この時代のテレビCM業界がどんな状況だったのか、背景を多少なりとも頭に入れておく必要がある。

当時、テレビCMという電波広告はまだ未知の領域だった。広告の主流だったのは、新聞や雑誌、ポスターなどの紙媒体である。年間の総広告費の上で、テレビが新聞を抜いてトップになったのは1975年のことで、60年代初頭はテレビを所有しない家庭もまだ多かった。

小津安二郎の「お早う」という映画を観ると、テレビをめぐるこの時代の空気がよくわかる。

この映画に、東京の下町に暮らすある一家が出てくる。小学生の兄弟が親に「テレビを買ってほしい」とねだるが、やたら高価であったのと教育上好ましくないということで、なかなか買ってもらえない。子供たちは仕方なく、近所で唯一テレビを所有する家庭に、毎日相撲中継を観に行っているーーという設定の物語である。

映画「お早う」が公開されたのが1959年。その年の皇太子ご成婚(ミッチーブーム)もひとつの契機として、急速に普及していくテレビの影響力にはすさまじいものがあったが、まだ一家に一台という代物ではなかった。この年のテレビの世帯普及率は15パーセント程度。14インチの受像機が10万円以上、サラリーマンの平均初任給の約10倍というぐあいで、おいそれと購入できる家電ではない。

「映画」に携わる多くのクリエイターたちは、映像のつくり手という意味では"同業者"であるテレビ制作者を、あからさまに下に見ていた。「こんなもの芸術ではない」「記録にも記憶にも残らない」というのだ。

番組途中のコーナーで出演タレントが商品をPRする、通称"生コマ"が多く見られたのもこの頃の特徴である。つまり事前に撮影するのではなく、生放送で商品をコマーシャルしていたのだ。いまでは考えにくいことだが、ドラマでさえ"生"で演じて放送していた時代だ。

映画「お早う」にも描かれているが、世間にはテレビの台頭を懸念する風潮が強かった。映画と異なり軽薄な娯楽にすぎないというわけだ。番組でさえそうなのだから、その合間に"お邪魔"するコンテンツをつくる、CM制作者などクリエイターとしてまるで尊敬されていない。CMは「トイレ・タイム」と言われていた。

杉山が所属していた日本天然色映画の創立者、伊庭長之助はこのように語っている。

「録音所でも現像所でも、CMをつくっていると、すごくバカにされた。現金を持っていかないとフィルムを渡してくれない。スタジオを借りにいっても、なんだコマーシャルか、と鼻先であしらわれたものだ。そのたびに胸の怒りをなだめるのに苦労した」(産報『巧言令色の狙撃兵たち』)

だが、CMの業界ではパイオニア世代が、コマーシャル映像のクオリティを上げようと試行錯誤を重ねていた。

そして黎明期のテレビCMに、ある種の"美学"を取り入れようとしたクリエイターの一人が、杉山登志というディレクターである。彼らは映画とは異なるやり方で、優れた映像がつくれないか模索していたのだ。

かつてのインターネット界隈がそうだったように、新しいメディア産業が生まれるとき、当然のことながら人材は他業界からやってくる。日天社長の伊庭自身、異色のキャリアを歩んできた人物である。

伊庭は慶応の学生だった頃からハワイアンのウクレレ奏者として活動し、戦時中は中国に渡っていくつかの職場を転々としたのち従軍。終戦後はまた一時バンド生活に戻ったかと思うと、やがて進駐軍相手のビジネスを成功させる。のちにからだを壊して休んでいた頃、知り合いの頼みで、素人役者ながらたまたまCMに出演したことがきっかけとなって創立したのが「日本天然色映画」、つまり日天だ。

伊庭は競合もまだ少なかったこの業界にはチャンスがあるとにらんだ。「映画」と言っているが映画会社ではなく、映画館などで映画が始まる前に流す劇場用CMを制作する会社として出発している。この頃は劇場用CMも"コマーシャル映画"と呼んでいた。

日大芸術学部を中退した杉山は、絵本画家志望の若者だった。

杉山は学生時代、画家・永田力に師事し、居候のようにその自宅に滞在していた。昭和の美術界をリードした自由美術家協会に所属していた永田は、小説の挿絵も盛んに手がけ、水上勉『飢餓海峡』や赤川次郎『三毛猫ホームズ』シリーズなどが知られる。晩年は道化師や芸人をモチーフにした作品を多く描いた。

その永田の家が、たまたま社長の伊庭宅の近所であったこともあり、伊庭と交流のあった永田の薦めで、発足して間もない日天に入社したのだという。映像制作に疎い伊庭社長は、画家の永田からCM制作のアドバイスをもらっていたのだ。スポンサーを口説けるうまい絵を描ける若手がほしかった。

その頃、世間はなべ底不況に突入していた。2年で終わる短期的不況だったが、一時的に就職は難しくなっていた。杉山登志はひょんなことから働き口を見つけて大学は中退、広告の世界に足を踏み入れることになった。だが、最初の頃は、会社がイヤで仕方がなかった。後年、石岡瑛子の取材に対して、杉山の母きみゑはこのように答えている。

「『日天』へ入ってからも、最初の頃は喧嘩ばかりしていて、気に喰わないと、行ってすぐ帰ってきてしまう。そんなことが十回くらいあったかしら。そうすると、社長や奥さんが迎えにいらして、それでも『行くもんか』なんて言って……。『俺、もう辞めちゃう』なんて言うから、私が『それなら喧嘩してきなさいよ。当たってくだけろじゃない』と言うと、『じゃあ、俺、当たってくだけてくるよ』なんて言って出かけて……」

出社拒否する若手を社長が家まで迎えに来るとは、よほど登志を可愛がっていたのか、才能を買っていたのか。いずれにせよ、最初は絵を描ける社員が杉山一人しかいなかった。

日天がCM制作会社としてユニークだったのは、社長の伊庭が映画嫌いだったためか、当初は映像関係の人材をリクルートしなかったことだ。CM映像をつくる会社であるにもかかわらず、社内にその技術に長けた人はいなかった。

伊庭が苦労を重ねて最初に取ってきたクライアント、「フルーツパーラー高野」のCMも大失敗だったという。撮影をすませて現像したフィルムを見ると、色が青一色しか出ていない。フィルムを裏返しで撮影していたのである。これでは社名に"天然色"は謳えない。

杉山登志は、映像制作には関心があったのだろうか? 『伝説のCM作家 杉山登志』を読むと、若くして中国で戦死した鬼才・山中貞雄の監督作品をリスペクトしていたーーとの関係者の証言が紹介されている。しかし、映画青年的にマニアックに熱中していた形跡はない。学生時代には、2冊の絵本にイラストを描いている。

だが、杉山は入社して間もなく、自分の意外な才能に気づくことになる。広告する商品を知らされると、CMの"お話"を淀みなくポンポン思いつくことができた。そのアイデアの面白さには、社長の伊庭も舌を巻くほどだった。それを絵コンテに描き、外注企業に渡して撮影を委ねていたのだ。杉山は絵がうまいだけの若手ではなかった。

しかし、完成したCMを見ると、最初に彼が思い描いていたイメージとどうも違う。なんでこうなっちゃうのかなあ…、と思いながら絵コンテを描いていたが、やがてCMを自分の手で演出したいという気持ちが芽生えていき、撮影にも立ち会うようになった。

入社3年目の1960年には、監督デビュー作となる「3匹の子ブタ篇」(文化シャッター)をつくった。

このCMは、日天が手がけたテレビCM第一号でもある。「テレビCMは儲からない(※当時は)」という理由から、伊庭はテレビの仕事に前向きではなかったようだが、知人に頼まれイヤイヤ引き受けたものだという。処女演出作で「3匹の子ブタ」をモチーフにしたところを見ると、やはり登志は童話が好きだったのだろう。もしかすると彼自身が、劇場CMより制作ハードルの低かったテレビCMをデビューの場にしようと、みずから志願したのかもしれない。

(続く)