EIKOTIMELESS 石岡瑛子とその時代

文・取材:河尻亨一

# 02 生ける伝説にお目にかかれて光栄です

Spiderman

インタビューが始まってすでに3時間がたとうとしていた。私はひとつ気がかりなことがあった。それは石岡の体調だ。このインタビューはそもそも、彼女のアトリエではなく病院で行われることになっていた。

石岡のマネージャーであるトレイシー・ロバーツからは、「エイコは検査入院の最中なので、そちらに来てもらえないでしょうか?」というメールが届いていた。そういうことならば取材を延期あるいは中止したほうがいいのでは? と私は思いつつも、「瑛子さんさえよろしければ、いつでもどこでも行きます」という旨のメールを送った。

トレイシーからは“You are absolutely right.”という返事がきた。

つまり石岡の意志がすべてなのである。彼女が会えないと言うのであれば、このインタビューのためにニューヨークまでやってきた私は手ぶらで帰国するほかないのだが、石岡のコンディションがベストでないならそれもやむなしと思っていた。

この仕事はギンザ・グラフィック・ギャラリー(ggg)のアニュアルレポート「Graphic Art & Design Annual 10-11」のための巻頭インタビューで、私を石岡のもとへと派遣したのはgggの北沢永志だった。

石岡は当初、このインタビュー企画に難色を示していたのだという。「ポスターといった領域を飛び超えて仕事をしている自分に、グラフィックデザインについて語れるだろうか?」というのがその理由だ。

そもそも石岡はめたらやったら取材を引き受けるタイプのアーティストではない。「そういったよけいなことに時間を割いている暇があるなら、少しでもいまの仕事を前に進めたい」とよく語っていた。しかし、北沢は粘った。いくたびかのやり取りをへて、過去に石岡へのインタビュー経験がある私に白羽の矢がたったようだ。

石岡は取材をオーケーしたが、テーマに関しては練り直したいという。そこで私は、現在の日本におけるクリエイティブのビジネスが抱えるさまざまな課題を説明し、特定の組織に属さずインディペンデントな立場で仕事を続ける石岡の姿勢には、創作を志す若い世代にとってのヒントがあるのでは? といった内容の長文を想定質問事項とともにEメールで送った。

そういったやりとりをへてテーマは「デザインはサバイブできるか?」になったのだ。彼女の最新の仕事であるミュージカル「スパイダーマン」についてもぜひ話を聞きたいという一文も添えた。

当日になって場所がアトリエに変更になった。そして、その人は約束通りの時間に姿を見せた。

その感性の若々しさ、幅広いジャンルへの旺盛な好奇心もあって、話していると年齢など感じさせない石岡だが、この日、最初は少し疲れているように見えた。インタビューはする側される側ともに、かなりの体力を消耗する作業である。私はクリエイションを生業とする人々へのインタビューをずいぶん行ってきたが、それはその人の心の中に広がる森の中に入って行き、生命力にあふれた言葉の果実を一緒に狩るようなところがある。ただ話をしてもらうのではなく、彼らが自身でも言葉にしてこなかった物語を紡ぐお手伝いをする。

それは疲れることでもある。ただでさえエネルギーを使うことなのに、彼女のような全力疾走型のアーティストの場合、その負担が体調に響いてしまうおそれもある。ゆえに懸念があったのだが、話すにつれ彼女はどんどんハツラツとしてきた。止まらなくなった。

自身の体調については、笑いながら「ちょっと内臓の掃除をしていただけなのよ」とのみ語った。あとで思えば、すでにヘビーな状況だったと思わざるをえないのだが、弱い自分を他人に見せることを彼女は嫌った。

石岡瑛子という人物は、社会的にはワールドワイドな成功をおさめたデザイナーであり、創作にパーフェクトを追求する姿勢から厳格な人というイメージで見られることが多い。あらゆる派閥に属さず、狭い世界で互いをベタベタ褒め合う仲良しグループを嫌う独立独歩の生き様からは、孤高の人という印象さえ生まれる。

実際、仕事においては半世紀にわたって超人的ハードワークをこなし、妥協を許さない仕事っぷりは周囲から恐れられてもいたのだが、その素顔からは茶目っ気や気さくさも伝わってきた。

インタビューの当日も、彼女のアトリエがあるビルの下で待ち合わせだのだが、階下のスターバックスでみずから財布を開き、「あなたは何にする?」と二人ぶんのコーヒーを買い求め、フロントに飾られている絵画について「この絵に惚れてここに決めちゃったのよね。家賃が高いとは思ったんだけど」「瑛子さんでも、家賃とか気にされるんですね?」「そりゃそうよ。海のものとも山のものともわからない状態で、ニューヨークに来たんだから」といった雑談を交わしながらエレベーターに乗ったのだ。

私はこの日、石岡に会うのは三度目だった。一度目は2008年。北京オリンピック開催のひと月前。開会式の衣装ディレクターとして北京に滞在していた彼女に取材すべく、私は中国へ飛んだ。このときはかなりドキドキしていたというか、正直ビビってもいた。

それには理由がある。私が“石岡瑛子”というアーティストの名に初めて接したのは高校生の頃だ。「フランシス・コッポラの映画『ドラキュラ』で日本人がアカデミー賞を受賞!」。この快挙のニュースに世間は湧いていた。

2000年頃から広告やデザインを専門とするカルチャー誌で編集をするようになったが、その仕事の経験を積むにつれ、日本ではすでにその名が語られることが少なくなっていた石岡の存在の大きさを知ることになる。

最初の北京インタビューのときも事前にテーマや質問事項について、メールを通じて何度もやりとりがあった。私が驚いたのはトレイシー・ロバーツが担当する一部の事務的なやりとりをのぞいて、コミュニケーションを石岡本人と直でやり合うことである。

著名なクリエイターや企業のキーパーソン、タレントのインタビューでは、企画の調整から場所やスケジュールにいたるまでのすべての段取りをマネージャーや代理人が仕切るケースが大半だ。これは多忙な人たちの負担を軽減し、ときにはリスキーなオファーから彼らを守るための工夫だと思うが、そこにはデメリットもないわけではない。いざ現場におもむいたときに、こちらの意図や趣旨が相手に正しく伝わっていなかったり、周囲の事情がインタビューの内容にまで影響を与えてしまうケースが往々にして起こりうるからである。

しかし、石岡の場合は違った。企画の肝の部分を本人に直接ぶつけた上でフィードバックがあるのでブレようがない。オリンピックの開会式が間近に迫った超多忙な日々の中で、「会ったこともない若僧とのやり取りまでをも、よくマメに丁寧にこなしてくれたものだ」といまになって思うが、彼女はどんな仕事に対してもそういう人なのだ。すべてを把握していないと気が済まない、というところがあった。

メールの文面からは、この国家的プロジェクトを前にしての意気込みや気迫のようなものがビビッドに伝わって来た。そして、こうした“文通”を繰り返すうちに私はワクワクしてきた。石岡瑛子という伝説に次第にリアルな色味が足されていった。

取材場所として指定されたのは、北京で彼女が仕事場としていたデカいホテルだった。イッセイミヤケの服に身を包んだ小柄な人が現れた。この小さなからだから、どうすればあれほどのパワーにあふれたアウトプットが生まれてくるのだろう? というのが最初の印象だ。

本人を目の前にしてさすがに緊張はしたが、すでに何度もやり取りをしているためか、初めて会う人のような感じはしない。石岡はこちらを品定めするかのような表情をしている。失礼かもしれないと思ったが、出会えた喜びを率直に伝えたほうがよいと考え、私は「“生ける伝説”にお目にかかれて光栄です」と挨拶をした。その言い方がおかしかったのか、意外と的を射た形容だと感じたのか、とたんに表情がゆるみ石岡は声を出して笑った。それがアイスブレイクとなった。

その後石岡は、中国を代表する映画監督の張芸謀(北京五輪開会式の総合ディレクター)や爆竹アートで著名な蔡國強(ビジュアルディレクター)らとの北京の仕事が、いかにエキサイティングなコラボレーションになっているかを精力的に語り続けた。

かと思えば、ハリウッドでターセム・シン監督と進めている映画の話になったりもする。息をつく間もないほどにポンポン飛び出してくる言葉のシャワーを浴びながら、私の脳裏には「姉御」という古風な言葉が浮かんでいた。なんと言えばいいか、チャキチャキしているのである。

石岡が2000年代初頭までに主に海外で参加したプロジェクトについて、みずからそれらの現場の内幕をドキュメントした書籍に『私デザイン(I DESIGN)』がある。その本の文体やもらったメールの文章、過去のインタビューでの発言などから、歯に衣きせぬ物言いをする人物だろうという察しはついていた。彼女自身の言葉を借りると「過激」ということになるのかもしれない。しかし、むしろ私には「気っぷがいい」という形容のほうがしっくりくる。繰り出す言葉がサバサバしており聞いていて爽快だ。

結局、この日のインタビューは予定を大幅に上回る5時間に及んだ。次のミーティングのスタッフをすでに長時間待たせてしまっており、彼女のケータイにはひっきりなしに呼び出しの電話がかかってきていたのだが、まだ話足りないふうだった石岡は、「この続きをどこかで」と再会を約束してくれた。



次回記事は2月27日(金)に公開の予定です。