EIKOTIMELESS 石岡瑛子とその時代

文・取材:河尻亨一

# 04 TIMELESS・ORIGINAL・REVOLUTIONARY


EIKO ISHIOKA OFFICIALより EIKO ISHIOKA OFFICIALより


私は2009年の春からフリーランスとなり、編集者としてさまざまな新しい仕事に慌ただしく携わる中で、石岡とやり取りをする機会もなくなっていた。石岡が出演した「プロフェッショナル」のオンエアは2011年の2月、その後4月になって、ギンザ・グラフィック・ギャラリーから石岡への取材のオファーが来た。録画された番組を取材の資料として見た。

「時代を超えろ、革命を起こせ」とのサブタイトルが付いたその番組は、「すごい日本人がいた」というテロップから始まる。ストレートすぎてちょっと笑ってしまったが、確かに石岡にはそうとしか形容できないところがある。「すごい人がいた」だけでよいようにも思えるが、言うまでもなくNHKは日本の公共放送局である。

面白い番組だった。北京の取材で話にだけ聞いていた「スパイダーマン」のメイキング映像や本人によるコメント、作業シーンを見るうちに、私は無性に石岡に会いたくなっていた。

この頃の記憶は昨日のように生々しく鮮明である。なぜなら3月11日にあの大地震が起こったからだ。春先の日本はまだパニックに包まれていた。4月から5月、私は当時出向していたデザインの会社に通いながら、折を見ては東北の被災地で見よう見まねのボランティアをしながら取材もするような日々を送り、6月頭にニューヨークへと向かった。事前に「スパイダーマン」の上演を見て、彼女のアトリエを訪問したのは6月5日だった。

そして冒頭のシーンとなる。インタビューの終盤では、過去を振り返ることに積極的でなかった石岡瑛子にしては珍しく、自身の青春時代を振り返りながらこう語った。

「日本でグラフィックデザインといわれる分野の仕事をしながらも、私はしょっちゅう疑問を持っていたわけですね。芸大で基礎を勉強していたときは、目の前にいろんな可能性が無限に広がっていたわけだけど、食べていかなきゃいけないという前提のもとに、ほぼ全員が企業に就職するわけでしょう? そうするとほとんどが広告の仕事になってしまう。

でも、私が考える広告はみんなの考える広告とちょっと違って、もっと世の中をガッと撹拌できるような仕事がデザイナーでもできるんじゃないかな? っていう野心が湧き上がってきたのね」

オンエアされた番組に対する石岡自身の感想を聞いているうちに、その前年の大河ドラマの話も飛び出した。

「『デザインは生き残れるか?』ってことで言えば生き残れます。でも、生き残るための人物が出てこなきゃダメですね。明治維新の志士たちのような。坂本龍馬みたいなカッコいいデザイナーが出てきたら惚れちゃうけどね。

社会を変えるとまで言ったら大げさかもしれないけど、デザイナーも世の中が『おっ!?』と思うようなものを志さないとダメだと思う。たとえば、フランク・ロイド・ライトがグッゲンハイム美術館の設計を頼まれたとき、オープンカーに乗ってニューヨークの街をずっと視察したわけですけど、彼は『なんでこんな四角い箱しか作らないの?』と言ったわけ。四角い箱だけが建物じゃないって感じでね。

周囲の美術家たちはコンサバで猛反対だったんだけど、依頼主であるグッゲンハイムさんが『いや、オレはやる』と。そのクライアントもたいしたものだけど、そのときフランク・ロイド・ライトは90代ですよ? スゴイと思いますよね、ああいうエネルギーというのは。日本でも歳とともに能力が落ちていくって考え方があるけど、私は違うと思う。それはまったくの嘘だと思います」

撮影筆者(2011) 撮影筆者(2011)


すでにインタビューが始まってから4時間がたとうとしていた。東日本大震災について、アメリカの若いデザイナーたちが指向する社会派クリエイティブについての意見、表現のデジタル化やTwitterを始めとするソーシャルメディアの台頭への感想、そして石岡本人のこれからの仕事のプラン――思えばいろんなトピックで話を聞いたものだ。石岡はものすごく広い範囲のことに関心を持っていた。

「私はソーシャルライフなんてなしでいいわけですよ。若い頃はクラブで一晩中踊りまくるとか、まあいろんなことをやって散々遊んだから、いまはそんなことに興味がないのは当たり前だけど、もう時間がもったいなくてしようがないですね。24時間はほんとに短いし、できるだけ静かな自分の時間を持ちたいって思ってる」

インタビューの中で過去・現在・未来が溶け合い、それを貫く「私」がぼんやりと浮かび上がった。

石岡はその著作『私デザイン』(講談社/2005年)の序文で、次のように書いている。

「デジタル化はエンターテイメントの世界に影響を与え、文化、ライフスタイル、そしてもちろんアートやデザインの領域をも根底から変えていって、その速度は止まることを知らない。(中略)

このような時代をサヴァイヴしていくために最も大切なことは、内側から湧き上がってくるほんとうの“自分力”を培うことかもしれない。宙を舞う塵の数ほどもある情報も、使いようによっては確かにこの混沌とした世界をサーフィンしていくための武器になるかもしれないが、情報収集のパッチワークのような考え方や表現を世に向かって提示してみても、結局は人の心をつかむことはできない」

この文章が書かれて10年。この言葉はいまという時代を切実に言い当てる予言となった。そして、いつのときでも人を足早に追い越して行ってしまう「時代」というものに立ち向かうためのヒントがここにある。自分と対話する静かな時間、アーティストの成長にはそれが必須だと石岡は力説していた。

インタビューから7ヶ月後の2012年1月21日、石岡瑛子は他界した。

その翌日の早朝、私は自分が講義を持つ東北の美術大学に出講しようとしていた。地下鉄の中でぼんやりiPhoneを眺めていたとき、Twitterのタイムラインに流れてきた「ニューヨーク・タイムズ」の投稿でそのニュースを知った。石岡の業績をたたえる長い記事がリンク先にあった。そこには彼女は膵臓ガンと戦っていたと書かれていた。

「今日は話せてよかった。北沢さんの頼みだから断りにくいのと、あなたに会いたかったのと、やっぱりデザインについてもう一回自分でも考えてみたいなと思って。十分ではなかったけどね……」

すでに日はとっぷり暮れていた。立ち上がると窓の外に石岡が愛した“世界のへそ”、ニューヨークの夜景が広がっていた。セントラルパークの部分だけがぽっかりと闇に覆われている。別れ際、北京に続いて今回も石岡は再会を約束してくれた。「東京でまた続きを話しましょう」と。

二度目の約束は果たされることはなかった。

あれから3年。そのときのインタビューおこしを読みなおして私は思う。石岡にはもっと伝えたいことがあったのではないだろうか? もちろん、みずからの言葉で渡米以降の仕事を語り明かした『私デザイン』がすでにある。『Eiko by Eiko』『Eiko on Stage』など何冊かの作品集も刊行されている。

そもそもアーティストの場合、その人が作りあげたものが、ミステリーもはらんだまますべてを語る。石岡のようにビジュアルを武器として仕事をしてきた表現者だとなおさらそうだ。本来、インタビューなどは邪道なのである。

彼女は体力が続くギリギリまで仕事をし、病に対しても真剣勝負を挑んでいたと聞く。みずからの人生をもう一度振り返る静かな時間は十分には取れなかったかもしれない。いや、「すべてが試みの途中」と語り、熾烈なまでに「私」に向き合い続けた石岡は、振り返りに何千時間を費やしてたとしても「十分ではない」と言うかもしれない。

マントラのように唱え続けた「Timeless・Original・Revolutionary」が彼女の創作のテーマなら、「私」は石岡瑛子そのものに迫るためのキーワードである。ニューヨークでの取材で私が投げかけたものづくりの秘密に関する愚直な質問、それに対する最終的な答えは、やはり「私」ということであった。

石岡はクリエイターをアスリートにたとえた。ひとつの記録を達成した瞬間、次の記録を目指そうとする、「私」という無限の心の働きにゴールはない。

しかし、あらゆる命は有限である。このパラドックスを貫き通したという意味で、アーティストとしての石岡瑛子はパーフェクトそのものだったが、石岡本人も気づいていなかった「もうひとつの私」というものも存在するかもしれない。“私”は必ずしもその本人の中にだけあるものではない——それは人間という存在のミステリーだ。

筆者にしてみれば、石岡瑛子という“デザイナー”は、その存在そのものが巨大なクリエイションという面もあった。別の言い方をすると、話を聞いていてこちらが力をもらえるのである。

芸術に閉じこもるのでもなく、コマーシャルビジネスに魂を売るわけでもない。繊細さと過激さ、女らしさと男っぽさ、大胆さと用心深さが同居する人間性。聖なるものだけでなく、俗なるものにも注がれた愛と慈しみ。対象の本質を捉え抜こうとじっーとこちらを見つめる、そのまなざし。

多くの偉大なアーティストがそうであるように、その内面に抱える大きな矛盾を振り子のように行き来しながら、石岡瑛子は人生という長距離を駆け抜けていったように思える。

石岡に宿った「私」という名の強靭なる精神の作用が、洋の東西も超える豊穣な美の王国を生み出すエネルギー源となったのでは? というのが筆者の仮説だ。そして、彼女のその絶え間ない格闘における奇跡的な間隙に、「時間を超える何か」が息づいたのではないだろうか?

その晩年に偶然、彼女と知遇を得ることができた私は、“石岡瑛子”というアーティストを言葉でクリエイトする時間の旅に出ようとふと思い立った。自分の記憶が色あせないうちに。私がその実像を知らない2008年以前の石岡と、彼女と幸福なものづくりの時間を過ごした表現者たちに出会うために。

いわば、いまから私が描こうとすることは、本人不在のまま紡がれる“続き”の物語である。そして、これまで彼女の名前や仕事に接したことがない人たちに石岡瑛子という人、その人が情熱をかたむけたクリエイションの時代を知ってもらうための記録でもある。

「時代を記録することで、時代を超えられるか?」。このハードルに自分なりに挑戦してみたい。ミステリーはミステリーのままに。終わることなき試みのひとつとして。

「私の荒々しい槌が硬い岩石を仕上げるとき、その槌を動かすものは、それを握り、それを操り、それを動かす手である。それはほかから来る力に押されて進む。

私の場合は、美しいこの世を通してでしか、天国へ行く階段が見つからないのだ。神よ、お許しください。私があなたの創造を超えて想像することを」(ミケランジェロ・ブオナローティ)

0章(序文)完



次回記事は3月6日(金)に公開の予定です。