EIKOTIMELESS 石岡瑛子とその時代

文・取材:河尻亨一

# 05 デザインがギンギラだった頃

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1961年。東京藝術大学を卒業した石岡は資生堂に入社、宣伝部に配属された。資生堂と言えば、戦前からの広告・宣伝の名門企業だ。イラストやデザイン、コピーライティングを志す若手クリエイターにとって、サントリーの宣伝部と並んで憧れの会社だった。

資生堂は銀座にある。この頃は流行の発信地と言えば銀座である。カルチャーの中心は渋谷や六本木、代官山などではなく、ましてや秋葉原でもない頃。銀座の街はまさにギンギラギンだった。石原裕次郎のデュエット曲「銀座の恋の物語」が大ヒットした年でもある。その曲は300万枚のセールスを記録し映画化もされた。

キラキラした場所は、いつの時代も新しいものや元気なもの、珍しいものを惹き寄せる。銀座にはデザインや広告の関連会社が続々と誕生していた。最近で言う、スタートアップ企業やITベンチャーのようなものだろうか? クリエイティブへの情熱や野心を煮えたぎらせた若者たちがそういった“工房”に集った。

「デザイン」という言葉は、まだそれほどメジャーなものではなかった。当時デザイナーと言えば、世間一般にはファッションデザイナーを指していたという。グラフィックデザイナーは、その少し前まで「図案家」と呼ばれたりしていたのだ。石岡が卒業した学科の名称も、まだデザイン科ではなく図案計画科というものだった。

グラフィックデザインはこの頃、先端の表現技術であった。

石岡の入社の1年前の1960年5月、東京で「第1回世界デザイン会議」が開催される。これは日本のクリエイティブ史上の大事件だった。世界20カ国超から250名以上の著名デザイナー、建築家が参加し、約1週間にわたってディスカッションやスピーチを行った。

揺籃期の“デザイン業界”は大騒ぎになった。いわば黒船来航である。キラ星のような有名クリエイターたちをひと目見ようと、会場となった大手町の産経会館には大勢の関係者が詰めかけた。盛況のためパスが入手できず、会場の周りをウロウロするだけで帰った若手デザイナーもいたようだ。

しかし、どういう手を使ったのか? まだ学生であったにも関わらず、石岡はこのカンファレンスの傍聴席にまんまと潜りこむことに成功している。そして、デザインという行いの広さ、深さを知って衝撃を受けることになる。世界の巨匠たちによる作品は印刷物では見ることができたわけだが、本物に“生”で触れたときの伝わり方はまるで違った。

作品集『EIKO by EIKO(邦タイトル「風姿花伝」)』のあとがきで、石岡は「世界デザイン会議」が自身に与えたインパクトを次のように記している。

「私は学生として、はじめて世界のデザイナーたちの講演を聞き、彼等の考えるデザインの意味あいに触れる機会をもった。同時に建築からインダストリアルデザイン、インテリアデザイン、グラフィックデザインなど、デザインという実像を大きな枠組みでくくって考えることのできる刺激的な経験を得ることができた。

理論を裏づけにした抽象論より、ハーバード・バイヤーやソール・バスのような実践論の方が学生の私には、新鮮であり、重みがあった。特にソール・バスがグラフィックデザイナーでありながら、映画という三次元のメディアに取り組んで、様々な試みを行っていることに刺激を受けた」

カンファレンスの内容もさることながら、なにより人に感銘を受けたようだ。筆者による最後のインタビュー(2011年)でも、半世紀も前の「世界デザイン会議」を振り返り、次のように語っていた。

「そのときにハーバード・バイヤーは確か60代だったと思うんだけど、かくしゃくとしてカッコよくてね。私もその歳くらいになっていい仕事ができる人生をやっていきたいなって、そのとき決めちゃったの」

ハーバード(またはヘルベルト)・バイヤーはバウハウスの芸術運動に参加したデザイナーであり写真家。ソール・バスは映画のタイトルにグラフィックデザインを持ちこんだ第一人者として知られるが、この当時公開されたヒッチコックの映画『めまい』(1958年)では、映画に初めてコンピュータグラフィックスを取り入れるなど、先進的な表現に挑戦していた。

世界デザイン会議のようなビッグイベントも契機となり、「デザイナー」は時代の花形のような職業になっていく。日本デザインセンターが創設されたのもこの頃(1959年)である。

ときは高度成長まっさかりであった。数年後に東京オリンピックを控えてもいた。「上を向いて歩こう」な時代だった。広告や宣伝というビジネスはキラキラとして、そしてギラギラしてもいた。

もっといいモノが欲しい、うまいものが食いたい、刺激的なものが見たい、モテたい、旅だってしたい、欧米人のようなリッチな暮らしがしたい――さまざまな欲望が社会全体から噴き上がり、日本人はガムシャラに働いた。努力すればたいていのものなら手に入りそうな気がする時代でもあった。

そういった欲望をドライブする装置としての広告は、巨大な産業に成長し始めていた。資生堂やサントリーといった企業の宣伝手法には、洗練されたスタイルと伝統がすでにあったが、それまでとも違う、新しい感性のクリエイションが求められてもいた。

たとえばサントリーの宣伝では、PR誌「洋酒天国」(1956~1963)が、都会のビジネスマンたちの界隈で話題になっていた。開高健と山口瞳といった名編集者・文筆家とアンクルトリスで知られるイラストレーターの柳原良平らが中心となって制作していた雑誌だ。

このフリーペーパーは、それまでは高級酒だったウイスキーの魅力をより親しみやすく、小粋なイラストやちょっとセクシーなグラビア写真、人気作家のエッセイなどでアピールするカルチャー誌だった。いま手に取っても、思わず「カッコいい」と感嘆してしまうようなつくりの雑誌である。

酒場に行けば手に入るという配り方もいい。趣味を同じくする仲間(=飲む人)だけにシェアしたいという、同人誌チックな匂いがある。これがほしくてトリスバーに通った人もけっこういたそうだ。アルコールの楽しさや酒場でのたしなみを、面白おかしくお洒落に伝える男性的なスタイルの宣伝だった。

一方、化粧品を販売する企業である資生堂の広告は、なんと言っても美が売りである。女性たちの「キレイになりたい」という気持ちにいかに応えるか? が勝負だった。資生堂のPR誌としては戦前から発行されていた「花椿」があり、驚くことに最盛期には500万部以上が印刷されていたという。

日本におけるイラストレーション、グラフィックデザインの草分けの一人、山名文夫が戦前から戦後にかけて築きあげた資生堂のイメージは、「山名調」という言葉さえあるように、繊細優美な日本の女性美のスタイルとしてすでに定着していた。

その美の殿堂に殴り込みをかけたのが石岡瑛子だったと言える。先ほども引用した『EIKO by EIKO』によれば、入社面接からしてこのようなものだったらしい。

「当時の資生堂の宣伝部は、男性のグラフィックデザイナーのみが女性を対象に、商品計画、包装計画、宣伝計画をすべて行っているという不思議な風景の職場であった。就職を決める最後の試験の面接の段階で、『何か会社に希望はありますか』と問う試験官の重役にむかって、私は懸命にこう答えた。

『もし私を採用していただけるとしたら、グラフィックデザイナーとして採用していただきたい。お茶を汲んだり、掃除をしたりするような役目としてではなく。それからお給料は、男性の大学卒の採用者と同じだけいただきたい』」(『EIKO by EIKO』)

このエピソードは、石岡瑛子の人となりをよく伝えるものだ。女性だからとナメられたくない。逆に甘やかされるのもいやだった。男性と対等に扱ってほしいと思っていた。それを正直に言ったのだが、掟破りとも言えそうなこの逆オーダーには、重役もあっけにとられたことだろう。

2015年現在、いまなお男社会の気風が残る職場も多い。しかし、クリエイションの世界でも、当時に比べれば女性デザイナーやアーティストの活躍が目立つようになってはいる、とも言える。

だが、さきほどのエピソードは、現代とかなり事情が異なる1960年代初頭の話だ。美術界のエリートとも言えそうな東京藝大卒の“肩書き”があったとはいえ、面接という勝負の場でそれを言ってのける、それが石岡という人である。

石岡瑛子はその出発点からいろんな意味で型破りのルーキーだった。

入社後は「技術的な面でまったく使いものにならない新入社員だった」が、「技術の修得などは、おそらく5年もやれば身につくだろう。それから先が問題だ。勝負は長い」――と、のんびり構えていたという。

そのわりに資生堂5年目の65年には、「第15回日宣美(日本宣伝美術会)展」でグランプリを受賞している。これは日宣美における女性初のグランプリ受賞ということで話題になった。

受賞したのは、「シンポジウム・現代の発見」というテーマの連続トークイベントが、京都国際会館で行われることを想定して制作された連作ポスターである。それはいわゆる山名調のやさしい女性美とは一線を画す幾何学的なフォルムで構成されており、それでいて肉感的な生命力をも感じさせる、不思議な佇まいのグラフィックとなっている。

gendai no hattken

山名文夫も立ち上げ人の一人となった、いまはなき日宣美という組織への入会は、当時の若手デザイナーにとって達成すべき目標のひとつだった。石岡自身の言葉を借りるならば「一人前になるためのキップ」という登竜門のコンクールだ。

興味深いことに、このコンクールの一般部門は自由課題だった。つまり、実際にクライアントから依頼を受けて制作したわけではなく、この会場でこういうイベントが行われたら素晴らしいということで、日程からトークのテーマ、出演者、後援企業にいたるまですべて石岡自身が考えた、いわゆる“勝手広告”だ。

その後石岡は、「社運をかけたキャンペーンの中心スタッフに採用される」ようになる。1966年には当時17歳だった無名の前田美波里を起用したサマー化粧品キャンペーンを、上司であるアートディレクターの中村誠や写真家の横須賀功光らとともに手がけている。

「化粧品広告という極めて通俗的な表現の枠の中に、爆弾を仕掛けることに意欲を持っていた私は、他の男性スタッフと、今まで資生堂が築きあげてきた女像をぶち壊す戦法を選んだ。

発言の素材として登場する女性は、今までの日本の広告表現には、登場することのなかったタイプにする必要があった。それにはまず肉体が健康的で堂々としていること、相手の眼をきちんと見すえる意志的な顔を持っていること、その女性は強い太陽の下にしっかりと立ってもへこたれない生命力を感じさせること、それが私の希望する条件だった」(『EIKO by EIKO』)

このサマーキャンペーンが、日本の広告業界では初の海外ロケだった。ハワイで撮影されたこのポスターは大評判となる。「貼っても貼ってもはがされ」たという。つまり盗んで家に貼っておきたくなるほどだった。既存の女像をぶち壊したい、そんな石岡の作戦は成功した。

このように石岡瑛子は1960年代からすでに輝かしい実績を積んでいたが、この時期についてはまた章を改めてじっくり描くことになるだろう。

タイムマシンにお願いして時間を少し早送りする。1970年代から物語を始めよう。なぜならそこから始まる10年が、石岡の日本での活動期間として、もっともキラキラで、そしてギラギラしていた時期だからだ。

次回更新は3月13日(金)の予定です。