EIKOTIMELESS 石岡瑛子とその時代

文・取材:河尻亨一

# 06 時代の“踊り場”としての1970

パルコ渋谷 さしかえ

1970年。この年、石岡瑛子は自身のオフィス「石岡瑛子デザイン室」を立ち上げた。ほぼ9年関わった資生堂を退社し、フリーランスとしての活動を本格的にスタートすることになった。

1965年に新人の登竜門である日宣美グランプリ、1970年に独立。キャリアデザインという言葉は当時なかったと思うが、あらかじめ決めていたかのような几帳面さのようなものさえ感じる。偶然だと思うが、石岡のプロフィールのいろんなところに、こういった区切りの良さを見ることができる。次は1980年に渡米となる。

石岡のように業界の注目を浴びているクリエイターの場合、ある時期が来れば独立は当然のことのようにも思える。仕事だっていくらでも来そうなものだが、当初は「不安と期待が折り重なって」いる状態だったという。

世の中なんていい加減なものだ。日宣美のグランプリについても「女だから獲れたんでしょ」などとあからさまに言い放つ者さえいた。「女だからチヤホヤされてんでしょ?」という周囲のムードを、石岡自身は敏感に察知していたのだと思う。

環境が変われば手のひらを返したような冷たい扱いさえ受けかねない。しかし、石岡はそこで萎縮して周囲に気をつかってしまうようなタイプではなかった。逆境になればなるほど「やってやろうじゃないの」とファイトを燃やす。男前な姉貴なのである。

退社を決意したタイミングで彼女のもとに最初に来たのは、広告やグラフィックデザインではなく、映画の仕事だった。映像プランナーとして、「愛奴」(監督・羽仁進/1969年)に携わった。

予算や技術上の問題、現場の古い体質などから、「10分の1のアイデアも実現できなかった」と語るほど不完全燃焼感が残った仕事のようだ。だが、のちに石岡が渡米してからの映画との付き合いの長さ、深さを考えると、この出会いは興味深いものがある。

この頃、石岡はフリーランスになるのを機に、広告以外の領域に進出したいという気持ちもあったようだ。

この時期にはほかにも、当時話題になったロックミュージカル「HAIR」(1969年末公開/日本版)のポスター、何名かの著名デザイナーが参加した大阪万博(EXPO'70)のオープニングポスターや同博覧会で披露された日本ガス協会の映像作品「笑いのシンフォニー」の映像プランニングなどを手がけている。独立1年目にしてはビッグイベントが多い印象だ。

EXPO’70

だが、本当の意味での快進撃が始まるのはその翌年からと言えるだろう。1971年、石岡瑛子はパルコのコーポレートイメージをアピールするためのトータルディレクターに起用された。先に紹介した作品集『Eiko by Eiko』に石岡は次のように記している。

「この頃、テレビ媒体だけでなく、新聞、ポスター、出版物などあらゆるメディアを使って強力な発言を押し進めていく役目を私に依頼してきたパルコという企業との出会いは、70年代という時代と、私自身のやる気とを結合させてくれた数少ない貴重な出会いであった。フリーランスになったら広告を離れようとしていた私の気持ちを再びその現場に引きもどし、燃焼せざるをえない破目に陥れたのもパルコである」

そして、石岡が手がけたパルコのキャンペーンは、70年代半ばにはセンセーションを巻き起こし、広告というジャンルをこえた社会現象として語られ始めることになる。「石岡瑛子は広告をアートの域にまで高めた」といった評価が出始めるのもこの頃からだ。

いまとなってはそのキャンペーンの盛り上がりっぷりを実感としてつかみにくい。しかし、世間が当時それをどう捉えていたかを推し量ることはできる。たとえば次の新聞記事などは、当時のパルコの熱気やその広告が時代にもたらしたインパクトを多少なりとも伝えている。

「女性が強くなったのか、それとも男が女性に甘くなったのか、いずれにしてもパルコの基本戦略は、めっきり強くなった女性に向けられてきた。(中略)パルコの打ち出すその時どきの風俗ポスターも、バタくさい白人から、エネルギッシュな黒人へ。そして、静かな着物姿と、多彩な中にも一貫して女のダイナミズムをうたい続けている」(「朝日新聞」1976年5月17日付)

60年代末から世界に広まったウーマン・リブ運動の影響もあり、新しい時代を牽引するのは新しい生き方を志向する女性たちである——日本にもそんな風が吹き始めた。

無敵に思えた高度成長にも陰りがさしはじめていた。「モーレツからビューティフルヘ」というコピーを掲げた富士ゼロックスのコマーシャルがヒットしたのも1970年のこと。三島由紀夫の自決も同年である。新宿界隈にはヒッピーやフーテンなどと呼ばれた若者たちがたむろっていた。「アンダーグラウンド」であったり「サイケデリック」であることが“ナウい”とされた。

そうやって見ていくと、70年代は60年代とかなり空気の違う時代である。『日本広告表現技術史』という書籍にも次の一節がある。

「70年代は50年代から続いてきた大量生産・大量消費をモットーにした、アメリカ型のマーケティングがようやく転換期にさしかかり、広告の中心に位置していたものが活力を失い、代って周辺的なものが活性化し、新しい力を持ち始めた時代であった」

かつてのウイスキーの名コピーではないが、「時代なんか、パッと変わる」。思わずそんな感想さえ浮かぶ。

日本の1970年代初頭は、「これまで」と「これから」がせめぎあう“踊り場”のようなところがあった。クリエイションの分野でも、「もっと世界へ出ていこう」という動きと、1970年に始まった国鉄の大型キャンペーン「ディスカバー・ジャパン」のように「日本を再発見しよう」という動きとが並走した。

ちなみにディスカバー・ジャパンのサブタイトルは「美しい日本と私」。同キャンペーンでは女性の視線をおおいに意識したポスターが制作された。「モーレツからビューティフルヘ」も企画したプロデューサーの藤岡和賀夫は、当初このサブタイトルの考案を三島由紀夫に依頼しようとしたが三島は断ったという(Voice+「ディスカバー・ジャパンの衝撃、再び」)。

理由はわからない。しかし、このキャンペーンが提唱する「日本」が三島の考える「日本」とは相容れないものであった、という推測もできないわけではない。

時代は混沌とした踊り場であった。しかし、踊り場は昇る降りるに縛られない自由なスペースでもある。その場所がステージであるかのように、時代の真ん中で鮮やかなダンスを披露してみせたのがパルコである。池袋にパルコの1号店が誕生したのは1969年のことだ。

パルコの広告が生み出す大胆に感覚的なイメージは、新しい時代の新鮮な空気を吸っている人びとの気持ちに応えた。パルコの広告のすべてに石岡がタッチしていたわけではないが、そのパワフルな台風の中心にいた。

パルコは広告だけが目立っていたわけではない。イタリア語で「公園」あるいは「広場」を意味するこの“商業施設”は、当時、これまでにない斬新なスペースとして受け止められていた。まさに「中心から周辺へ」の時代を象徴する存在として、東京からその後全国へと広がっていく。

このムーブメントの仕掛人となったのは、増田通二(1926~2007)という人物である。70年代における石岡瑛子とパルコの物語は、この男の存在抜きに語ることはできない。

増田通二は昭和2年東京生まれ。父は日本画家だったという。大正期の都市空間に育まれたモダンでリベラルな空気を吸いながら幼年期を過ごしたのだろう。東大哲学科卒業後は高校の社会科教員をしていたかと思うと、妻の実家である上野の日本料理屋で働いたりしていたが、同級生だった堤清二(元セゾングループ代表 、作家・辻井喬としても活動/1927~2013)とのコネクションもあって、1961年に西武百貨店に入社する。そのとき増田は30代の半ばであった。

やがて増田は、当時にして8億円もの負債を抱えていた池袋の丸物デパート(東京丸物)の再建事業にタッチするようになる。経営難に陥ったデパートのマネジメントを西武百貨店が引き受けたのである。そのリニューアル策として立ち上がったのが「パルコ」の構想だった。

『パルコの宣伝戦略』という書籍がある(パルコ出版/1984年)。時代にセンセーションを巻き起こした企業が、その宣伝手法をみずから読み解いてみせるという趣旨の大変ユニークな本だ。パルコのシンクタンクである「ACROSS」編集部が制作している。

ポスターやCMといったいわゆる広告だけではなく、マーケティングから販促・PR、空間デザイン、イベント企画、ニューメディア開発の取り組みなど、パルコのコミュニケーション戦略全体を包括的に紹介する“種明かし”の一冊として同書は興味深い。ブランド作りの教科書としていまなお参考になる点も多い。

それはさておき、『パルコの宣伝戦略』の前書きで、増田はパルコという事業を「オルガナイズビジネス」と位置づけている。そして、パルコはその試みにおける「日本で初めての成功例」であると述べている。少し引用してみたい。

「そこは『百貨店というビジネス形態をディベロッパーとテナントに解体し専門店集合ビルを発足させ』る新発想のストアだった。ディベロッパーがコンセプトや場所を作りテナントを選び、テナントはモノを売る、いまとなってはオーソドックスに思える商業施設の事業スタイルであるが、当時はそうではなく、パルコがそのビジネスモデルの先がけであった」(『パルコの宣伝戦略』)

「オルガナイズビジネス」とは聞き慣れない言葉だが、それは一商業施設をこえた街づくりの構想でもあった。

ゆえにパルコには劇場があり、出版部門もある。文化をクリエイトし発信することで、街そのものを活性化することが本願だった。増田によればそれを成就させるためには、企業の情報をオープンにすることが必要なのだという。

「このオルガナイズビジネスというのは、ある程度情報公開的なところにそのベースがあると思われる。介在する企業の情報を包み込み、隠したうえでは『オルガナイズ』など成しえないからである。(中略)

例えば、街づくりという非常にパブリックな仕事を考えた場合、そこで一部の専門家たちがメリット・デメリットを秘匿しながらやっていたのでは、魅力ある街づくりなど実現できようはずがない。街づくりの発想というものは積極的にオープンにされるべき情報である。(中略)

クリエイターやテナント、若者らがこの『広場』に結集しているのである。(中略)『PARCO』に大勢の人びとが参加することによって生産性が高まる。(中略)――パルコはそうやって利用されてゆく存在である。(中略)さまざまなものの参加というクロスオーバーな状況のなかで何が生まれてくるのか――そのための条件をセットしてゆくのがパルコの役割である」(『パルコの宣伝戦略』)

増田はパルコという場を、「一種の『フリーなバザール』環境」と考えていた。恐るべき卓見である。約30年前の著述だがまったく古びていない。「場」「参加」「オープン」の3本柱を据えて街とビジネスを語るあたり、いまどきのコミュニティ事業かプラットフォーム構築の話とさえ思えてしまう。

パッと変わっていくように見えて、意外と同じ場所をグルグル回っていたりするのも時代というものだろう。

増田の著述を長く引用するのには理由がある。まずそのイノベーティブな発想や人柄が興味深い。そして、広告表現にはそれを世に送り出す企業トップの人間性やフィロソフィーが色濃く反映されるからだ。

時代の仕掛人たちのアツい思いがこもったオーダーにどう打ち返すか? それが豪速球であるほど、打つ側も試される。ホームランか、凡打で終わるか、盛大に空振りするか。観客席からは球のゆくえしか見えないが、プレイヤー同士の内面の駆け引きは激しく、その一挙手一投足が試合の流れを決めていく。

表現を作り上げるクリエイターがいくら有能で、企画や制作に力を尽くしたとしても、アイデアが合議制で決定され、社内の都合や大人の事情が連発されるような現場からは、銛のように時代に突き刺さるものは生み出されない。

よって、その時代を代表するような広告キャンペーンを送り出す会社の経営者やキーパーソンは、ほぼ100パーセント、強烈な個性やカリスマ性を持つワンマンなタイプと考えてよい。

増田通二はどういう人だったのか? 生前の増田を知る人に聞くと、話がとにかく面白かったという。明るいユーモアのある毒舌家であり、落語家のような独特の話術で人を虜にする。打ち合わせではスタッフの笑いが絶えなかったそうだ。声がやたらデカいことでも有名だった。

石岡は「広告を離れようとしていた私の気持ちを再びその現場に引きもどし、燃焼せざるをえない破目に陥れたのもパルコである」と書いた。その超高温型の炉に着火したのは、増田だったに違いない。

強烈な個性という意味では、石岡も増田にひけをとっていなかっただろう。その内側には大量の燃料が詰まっていた。

次回は3月20日(金)に更新の予定です。