EIKOTIMELESS 石岡瑛子とその時代

文・取材:河尻亨一

# 07 シャッターが切られた瞬間、スタジオは劇場となった(インタビュー:伊藤佐智子氏)

家具コンペさしかえ キャンバス地を用いた家具デザインの国際コンペ(太陽工業/1973)



1969年パルコは池袋に第1号店をオープンした。69年と言えば、東大安田講堂の攻防がその1年の象徴的事件としてよく語られるように、カオスな政治の時代という印象もある。

しかし、先にもふれたようにカルチャーのシーンにおいては次の時代の予兆となるような動きが生じ、新たなスタイルの消費社会が始まろうとしていた。いつの時代でも文化や暮らしの変化は政治より早いのかもしれない。

いち早くこの新しい動きにタッチしたのが池袋パルコである。『パルコの宣伝戦略』ではその店舗内の風景を、このように描いている。

「昭和四十四年(※1969年)当時は、ヤングを見れば、サイケ・アングラなどの風俗もあったようにまさにデザインとフィーリングの時代であった。池袋パルコがインパクトを持ち得たのも、その商品内容自体よりも、デコラティブな店づくりが大きく作用している。(中略)

照明にしても、百貨店・量販店の蛍光燈に対して、専門店共同ビルのパルコは白熱燈を採用した。全体的なトレンドとしては、南欧調、陽気で小粋、明るく健康的で、店内にはイタリアン彫刻を配置した」(『パルコの宣伝戦略』)

石岡がパルコのキャンペーンに関わるようになったのは、池袋パルコ開業2年後の1971年から。しかし、最初からフルパワーで出力できたというわけではないようだ。

パルコの初期キャンペーンは、山口はるみや伊坂芳太良、宇野亜喜良、粟津潔、林静一といった人気クリエイターを起用したイラストレーションのポスター広告が多かった。

特に山口はるみがイラストを手がけたポスターは話題となり、エアブラシを用いて描かれた女性のポートレイトシリーズは、「はるみギャルズ」と呼ばれて流行語にもなる。外国人モデルを全面に出した写真に強烈なメッセージを添える石岡のビジュアルが時代の喝采を浴びるのは、もう少しあとのことだ。

パルコの元会長・増田通二(当時は専務)による自伝『開幕ベルは鳴った』に次の記述がある。

「パルコのイメージ戦略の骨格を形成し、それを成功に導いたのは、『強靭な個性と冷静な判断力の持ち主』の三人娘の功績が大きい。女性を訴求対象とする広告の送り手に、女性を使うのは意図的な選択でもあった。

私が三人娘と名付けたのは、先の山口はるみのほか、コンセプトワークの主動的な担い手でもあったコピーライターの小池一子、そして、アート・ディレクターの石岡瑛子である」

「パルコ感覚」と題された池袋パルコの広告(1972年)は、増田が“三人娘”と呼んだ、山口はるみ、小池一子、石岡瑛子による合作となっている。しかし1973年の渋谷パルコオープンのキャンペーン頃から徐々に、そのポスターやCMに“瑛子色”のようなものが色濃く現れはじめる。

Parco 1973 Poster:池袋Parco1972(左)/CM:渋谷Parco1973(右)


ファッションクリエイターの伊藤佐智子(BRÜCKE)は、まさにその当時、石岡との共同作業をディープに体験した一人である。

伊藤は1970年代初頭より衣裳デザインの仕事をスタートする。その後、広告はもちろん、演劇に映画、ステージ、テレビのドラマなど多岐にわたる現場で衣装をデザインし、いまも一枚の布から始まるクリエイションの一線を走り続けている。

広告ではサントリー・ローヤル「ランボオ」、FUJIFILM「七福人」、TOYOTA「ドラえもん」ほか。森田芳光監督「そろばんずく」、庵野秀明監督「式日」、行定勲監督「春の雪」、是枝裕和監督「空気人形」など数々の話題の映画。

2010年代以降では、三谷幸喜(作・演出)による演劇「ベッジ・パードン」、大河ドラマ「八重の桜」などにもたずさわっている。NHK連続テレビ小説「あまちゃん」の海女軍団のキャラクターを記憶されている方も多いだろう。

つい先日まで、舞台「三人姉妹」(作:アントン・チェーホフ 演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ)の公演がBunkamuraシアターコクーンで行われていた(2015年3月15日まで)。是枝監督による「海街diary」の公開も間近に控える(2015年6月)。

このように紹介していくと、伊藤佐智子がデザインやスタイリングを手がけた衣装を、日本のだれもが一度は目にしていると思えるほどだが、彼女がこの世界に入るきっかけとなったのは、石岡瑛子との出会いだった。

筆者はこの評伝の執筆にあたり、石岡瑛子とともに仕事をした方々にできうる限り取材したいと考えている。

伊藤が初めて関わった広告は渋谷パルコだった。2014年の暮れ、代官山にある伊藤のオフィスにお邪魔した。たくさんの服や素材がところ狭しと並んだ工房の打ち合わせスペースで話をうかがった。

——伊藤さんはどういうきっかけで石岡さんと仕事をされるようになったんでしょう?

瑛子さんのアシスタントをしていた成瀬始子さんが、私を瑛子さんに紹介したんです。なんのことかよくわからずに会いに行くと、「あなたは何をやってる人なの?」と聞かれたから、「洋服をちょっと作っていて……あと、木村恒久さんの教室でグラフィックデザインの勉強もしてます」って言ったんです。

そしたら「今度、渋谷パルコの立ち上げをやるんだけれど、あなた、洋服のデザインしてみない?」って。

ちょうど私が20歳くらいの頃で、その年頃の若い人をモデルとして探していたみたいです。「モデルじゃなく素人で、イキのいい若い子はいない?」という感じで。瑛子さんという人は、常に身のまわりの人からいろんな情報を求めるんですよね。

——それにしても、すごいですね。それまで面識もなかった学生をいきなり重要どころのスタッフに起用するなんて。

いまの時代では考えられないですよね。もちろん、瑛子さんは自分がディレクションする自信があったからだと思います。細部にまですごくこだわるし、完成度みたいなものをすごく重視するでしょう?

私は若いけれど完成度はありそうだと思われたんじゃないでしょうか。着たい洋服がないから自分の服は自分で作ろうというのがスタートだったんですけど、その頃は「服装」の編集長の目にとまって雑誌にページを持っていて、オートクチュールをやっている縫製士やパタンナーと仕事をしたり、着たい色もないということで染め物もやったりしていたから。そういうところも気に入ってもらえたのかもしれませんね。

——石岡さんとの最初の仕事はどういうものだったんですか。

パルコの「君って素敵だ。いくつなの。」です(1973年)。モデルがプールの飛び込み台から落ちるところを撮影し、コマーシャルではそのシーンを逆回転で見せる企画でした。女性が笑いながらプールから飛び出してくる、という演出ですね。

でも、服は1着しか作ってないでしょう? いまだったら3着くらいは作るんですよ、こういう企画の場合。1回落ちたら、衣装が濡れちゃって終わりですから。

——やり直しがききませんね。ということは、この撮影は1回では終わらなかったんでしょうか?

ええ、いまの落ち方はちょっと気に入らないということになる。撮り直しですね。必死にドライヤーで乾かしてアイロンした記憶だけがあります。とにかく大変で何回撮ったのかさえ覚えてないんですよ。もう自分のことだけで精一杯で。

演出は高杉治朗さんで、ずいぶん後になって私が広告の仕事を本格的にやるようになってから親しくさせていただくようになったんですけど、この頃は演出家のことなんて全然意識できなくて。

瑛子さんだけ見てましたよね。瑛子さんからのオーダーに100パーセントというか、120パーセント応えるために、一生懸命やってたっていう感じです。マキシーン・ヴァン-クリフにメイクをしてもらったモデルが飛び込み台に立ったときには、見たコトのないカッコよさでワクワクしましたけどね。

——パルコ以外の仕事ではどういうものをご一緒されていましたか。

家具デザインの国際コンペ(INTERNATIONAL CANVAS FURNITURE DESIGN COMPETITION)のポスター(1973年)も、忘れがたい仕事のひとつですね。青い布地の袋に瑛子さんの友人ダンサーに入ってもらって、いろんなポーズで撮影したんですけど、そのフォルムのベースになる形、素材を一緒につくったり。

「流行通信」の企画も面白かったです。写真は十文字美信さんで、中国の切り絵や京劇からイメージしたビジュアルを10ページ作ったんですけど、私は中華街からいろんな素材を集めてきて、夜中にチクチク縫ったりしてました。

撮影もすごく楽しかった。スタジオに大量の土を敷き詰めてね。モデルに瑛子さんの姪っ子を連れてきたり。瑛子さん、子どもが好きだったんじゃないかな? このスタイリングは褒められました。

ここで伊藤が語っているのは、1978年の「流行通信」の企画、「私のファッションイメージ」のことである。「行き行きて重ねて行き行く」と題されたフォトストーリーには、いまなお妖艶な空気が立ちこめている。

この作業は石岡も大いに楽しんだようで、作品集『EIKO by EIKO』にも気持ちの入ったコメントを寄せている。「常に身のまわりの人からいろんな情報を求め」た石岡のものづくりのプロセスや手法がよくわかる記述なので、少し長くなるが引用してみたい。

「かなり以前からあたためていた計画のひとつに、子供を素材に私なりの映像を現出してみたいというものがあったので、それをこの機会に実験することにした。

まず、注目はしていたものの、まだ一度も組んだことのない十文字美信を写真家として起用することにした。(中略)中国の古詩より男と女の悲恋の詩を選びだし、それを映像のシナリオにした。あれこれと映像のコンテを考える作業を続けている私の目の前に、スタッフの成瀬始子が中国の切り絵を持ってきた。それは京劇の十八番役を紙を切り抜くことで描写していったもので、焦点の定まっていない私のアイデアに好都合の参考資料となった。(中略)

今回の表現の最も重要なファクターであるスタイリングのすべては、私と十文字美信とで考え、他の優れたスタッフの協力を得て、キャラクター探しから、衣裳制作、大道具、小道具の一つ一つに至るまで、2人でじっくり話し合いながら準備したものである。その間に疑問が生まれると、演劇博物館で資料を調べたり、中国人の文学者に話を聞いたりして、撮影に必要なすべてのお膳立ては、独自の方法で行なった。

これは舞台に美術監督として参加する時の仕事に似ている。男の子の1人は公園で遊んでいるところを見つけ出し、2人の少女は私の姪を起用、他は友人の子供たちである。2日にわたった撮影は、チーム全員にとって興奮に満ちた幸福な共同作業の時間となった。

1枚目のシャッターが切られたその瞬間から、私にとってフォトスタジオは劇場となった」(『EIKO by EIKO』)

まず漠然としたイメージやアイデアがある。そしてそれを実現する機会が訪れる。モヤモヤしたイメージを形にする方法を模索し、身近な人々からのインスピレーションも得て入念に準備し、形を追求する。撮影の現場はライブとなり、アウトプットがビジュアルとして提示される——このようにまとめてしまうとキレイすぎるが、ものづくりにおけるある種の王道にこだわり抜いたのが石岡瑛子という人かもしれない。

このプロセスはクリエイションの世界に言えるだけでなく、すべてのものづくり、組織づくりなどにも当てはまりそうだ。

それにしても、自由度こそ高いとはいえ、利益という意味ではおいしい仕事ではない雑誌の企画にここまで力を注ぎ、中国文学者に会いに行ってまでリサーチをするとは。すさまじい執念のようなものを感じずにはいられない。

後述することになるが、石岡はほかの仕事においても、独特のスタイルで徹底的すぎるほどの下調べをこなしてから、制作に取りかかっている。

※次回は3月24日(火)に更新の予定です。