EIKOTIMELESS 石岡瑛子とその時代

文・取材:河尻亨一

# 08 神は細部に宿りライブに華ひらく

「ハムレット」(1976年) 「ハムレット」(1976年)

先の引用に「私にとってフォトスタジオは劇場となった」の一文があった。のちにブロードウェイの芝居のセットや衣装デザインも手がけることになる石岡だが、「舞台」も彼女の仕事を語る際に重要なキーワードである。パルコの頃(1970年代)からさまざまなステージに関わっている。

パルコを立ち上げた増田通二(当時専務)は、その若き日に演劇青年だった。生涯を通じて「演劇こそ、すべてのアートの根源であり、人生のエネルギーの出発点である」という信条を持っていたようだ。

増田は60年代中期に始まるアングラ芝居ブームにも注目していた。寺山修司らの天井桟敷、唐十郎らの状況劇場が、新宿を拠点に若者たちに大ウケしている様子をうかがいながら、「いつか劇場を作りたい」というアイデアをあたためていた。

増田単独の判断ではないと思うが、その構想を実現させたのが、渋谷パルコの西武劇場(現・パルコ劇場)だ。当初、渋谷パルコの上層階にはボウリング場が入ることになっていたという。若者にボウリングが大流行していた時代である。

そもそも渋谷は当時、いまのような大繁華街ではない。駅から約500メートル離れた坂の上という立地も、新しい商業施設をオープンさせるにあたって不安材料ではあった。そこにお客を呼ぶためには魅力的な“キラーコンテンツ”が必要だった。

しかし、予定は変更になり劇場が誕生した。その経緯を増田はこう記している。

「一九七二(昭和四十七)年の秋、池袋パルコのテナントオーナーや仕事仲間と一カ月かけてヨーロッパ旅行に出かけてた。帰国して驚いた。旅行前、あれほどに燃え盛っていたボウリング・ブームが、留守の間にすっかり沈静化してしまった。設計を急遽変更し、ボウリング場は劇場とレストランになった。(中略)

<東京の中で、知的なレジャーの拠点になれるのは、新宿でも池袋でもない。第四山の手を背後にした渋谷しかない。その火つけ役として劇場が必要だし、どうしても成功させたい>

高度成長でデパートは売れに売れた時期。どこも効率の悪いホールを潰して売り場に変えていた。いまさらなんで劇場をやるのかというのが、普通の見方だったろう。私は渋谷パルコの成否のカギを握っているのが劇場だと思っていた」(『開幕ベルは鳴った』)

さらりと書いてはいるが、大がかりな商業施設のオープンを半年後にひかえて「設計を急遽変更」できてしまうのがすごい。増田はやんちゃなガキ大将がそのまま大人になったような人だったらしく、他人を「ギョッ」とさせることが大好きだった。

しかし、劇場は中に入る演し物あってのものでもある。いくら箱が立派でもコンテンツがイマイチであれば、あるいは魅力的な演目であってもそれをキチンとPRして世に知らせることができなければ、金を払ってわざわざそこを訪れる人はいない。

西武劇場はその後現在に至るまで、数々の話題の公演をプロデュースしているが、こけら落しは「MUSIC TODAY/今日の音楽」という現代音楽のイベントだったようだ。この企画は好評でシリーズ化される。武満徹が企画・監修し、高橋悠治らが出演したこのステージは、かなり前衛的でとんがった公演だったと思われる。

初期の西武劇場の公演ポスターをほぼトータルで手がけたのは、石岡のよき理解者でもあったグラフィックデザイナーの田中一光だ。田中の起用を決めたのは増田ではなく代表の堤清二だったが、田中もまた終戦後まもない学生時代、芝居サークルの活動にどっぷり入りこんでいた人である。古今東西のことではあるが、芝居・音楽・スポーツ・お笑いやトークショーなど“ライブ”というものは、なぜ人をそんなに夢中にさせるのだろう?

ここで本筋を離れて少し寄り道することをお許しいただきたい。

田中一光もそうだが、日本の戦後グラフィックデザイン界のラスボスとさえ言えそうな亀倉雄策も、二人から見ればかなり年下で、しかも生意気女子であったと思われる石岡の才能を認めて可愛がり、よりスケールの大きな仕事へ向かわせるために発破もかけていた。新潟出身だった亀倉は「エイコ」と発音せず、「いぃこ、いぃこ」と呼んでいたという。

説明するまでもなく亀倉は、「東京オリンピック1964」の公式ポスターもディレクションした巨匠である。多くのデザイナーが競合コンペに参加したオリンピックのシンボルマーク案については、提出の〆切り日を忘れており、当日に催促の電話が入って2時間ほどであのデザインをまとめたという伝説もある。結果その案がコンペで圧勝した。亀倉自身は次のように言っている。

「『傑作』を作った時はものすごく苦労したと思うでしょ。『傑作』ってのは絶対そうじゃないですよ。もう、瞬間的に出来ちゃうんです。東京オリンピックの仕事なんて全部そうですよ。五分かそこらですよ」(後藤繁雄編・著『独特老人』)

「東京オリンピック1964」の連作ポスターに宿る、あのすさまじい躍動感やライブ感はこういったことと関わっているのかもしれない。一人のクリエイターの中に長年蓄積された表現力や構想力と一瞬の発想力、決断力で仕事は決まる。

このあたりご紹介したい話がてんこ盛りなのだが、先はまだ長い。亀倉雄策や田中一光と石岡瑛子のエピソードについては、章を改めてまた描くことになるだろう。

話をパルコに戻そう。山口はるみを中心とするイラストレーター陣もそうだが、武満徹や高橋悠治、田中一光といったキラ星のような、さまざまな分野の若手・大御所たちが入り交じっての集結ぶりを見ると、1970年代のパルコが文化の発信地としてどれだけアツい場だったかが想像できる。

石岡もパルコの広告キャンペーンを制作するだけでなく、「ISSEY MIYAKE SHOW」(1975年)ほか、西武劇場で行われたさまざまなステージに美術監督や舞台演出、あるいはトータルディレクターとして関わっている。ファッションクリエイターの伊藤佐智子もそのいくつかの仕事に参加している。それらの現場はどうだったのか? 前回に続いてお話を聞いてみたい。

——石岡さんとご一緒された舞台についてもうかがいたいのですが。

瑛子さんとご一緒した最初の舞台は、ストラヴィンスキーの「兵士の物語」(1974年)です。演出家は厚木凡人さん。これはお芝居というより舞踏がメインの詩的なステージでしたけど、写真で見ると、弧を描いた階段のセットなんてスゴいですね。

いま私は舞台の仕事が多いのでよくわかるんですけれど、これって経済的にも大変ですし、制作工程もとても難しいものなんです。こういうのを瑛子さんが通したのは画期的だし、それを認めたパルコもすごいと思います。衣装は全部ストレッチの生地で作りました。人が動く、肉体が動く美しさは伸びる生地でないと出にくいので。

兵士1974 兵士の物語(1974)

——石岡さんは肉体の動きの美しさにもこだわりがありそうですね?

いや、もともとはポスターに命をかけてらしたので、わりとね、静止したときの美しさみたいなことを、私なんかはずいぶん厳しく言われた気がするんです。たった1ミリの違いで、結果が全然違うことになっていくという世界観は、もう叩き込まれました。

撮影した写真を投影して、その上から鉛筆で人の姿をトレーシングペーパーに写していた姿が印象に残ってます。そういった細かい作業をしているところをいつも見ていたので、私も敏感にならざるをえませんでしたね。「神は細部に宿る」って言いますけど、その神を何度も目の当たりにしてきましたから。

こうやって思い出してみると、いまはいろんなことがラフになってる気がしますね。タイポグラフィに対してもちょっとしたことですごく変わるなんてことに。

タイポグラフィは私の先生の木村恒久さんから教えられたものでもありますけど、そういうことに対して神経の鋭いデザイナーが私は好きです。瑛子さんも平面(グラフィック)から入ってらっしゃった方ですから、コンセプトの着地点を見るところがとても細かかったですね。

——「すさまじいまでの完璧主義」といった話はよく聞きます。

ただ、時間にはけっこうルーズなところがあって(笑)。やることもたくさんあるし、瑛子さんは何か思いついたら、そこで時間を取ってしまったりもするから。「兵士の物語」のとき、初めての打ち合わせに遅刻して、ものすごい怒鳴られたんですよね、演出の厚木さんに。それですごく雰囲気が悪くなっちゃって。

広告と舞台の人では、ちょっと感覚が違うんですよ。本当に恐かったんです、舞台の方たちは時間に厳しくて。その頃は私、いつも瑛子さんと一緒だったから、そのことがあってからは「瑛子さん、もう時間です」なんてしょっちゅう言ってた気がします。

その次の「ハムレット」(1976年/西武劇場)もご一緒したんですけど、これはストーリーがキチンとある大がかりな芝居でした。演出は文学座の木村光一さんで、この仕事で初めて瑛子さん以外の人の言葉に耳を傾けられるようになった気がします。それまでは全然そういう余裕がなかったんです。瑛子さんのオーダーに応えることだけで必死だったから。

ハムレット1976 「ハムレット」(1976年)

でも、「ハムレット」のときには、なぜか木村さんのことをよく覚えているんです。木村さんが「劇中劇のときは大きな仮面をつけた役者にしたい」っておっしゃったんですけど、瑛子さんが「いや、それは全然よいと思えません」なんて、演出家のプランに対してけっこうメッタ斬りにするわけです。でも、私は木村さんの演出のほうがダンゼン素敵なのになって思ったり。

——それはご本人には言いづらいですね。

言いませんでしたけど、瑛子さんていう人はね、なぜ私を可愛がってくださったかというと、本音を本気で言うからだと思うんです。私もずいぶんと傲慢に生きてきて、いろんな人に迷惑かけたなといまは反省してますけれど、傲慢だったぶん、信じこみや思いこみも激しかったので、そういうのが重宝がられたんですよね。私の思いこみにはやっぱり理由があるから、それを知りたいと思ってくださったんじゃないでしょうか。

つまり瑛子さんは、「若い人が何を思っているのか」ということにすごく興味があるわけ。若い人はいまを生きているから。だからこっちがふと本気で言葉をもらしたとき、たとえば瑛子さんの言ったことに「えっ? それはちょっと古いと思います」なんてことを言うと、「あら、そう。どうして?」なんてことがずいぶんありました。聴く耳を持ってらっしゃったと思います。そうやっていろんなところに落ちている宝物を拾い集めるのが上手でしたよね。相手をその気にさせるのもうまいですし。

「ハムレット」も本当に面白かったですよ。この頃、ドレープに凝ってたんです、私。でも、ドレープだと生地が2〜3倍必要になってしまうので、このときは生地から作りました。瑛子さんはそういう一から作るプロセスもお好きだったみたい。

——そういう作り方をしていたとなると、伊藤さんも当時からすごくお忙しかったんじゃないですか。

本当に寝る間もないくらいですよね。でも、遊びも忙しかったんです。瑛子さんって、あの頃から頻繁に撮影で海外に行ってらしたじゃないですか。するとオフィスが主ナシになっちゃうじゃない? そういうときは、みんなで集まってパーティしちゃう。それはすごく楽しい思い出です。

いま考えると、よくそんな時間あったなあと思いますよね。パルコの仕事なんかで忙しくても、外からものをとるってことはなくて、おしゃれなパスタとかサラダとか中で作って食べてましたから。それを出すセンスも、ひとつの仕事のうちじゃないですか? そのときは成瀬さんと、乾京子さんというアシスタントだったんですけれど。

——ところで、その頃石岡さんのオフィスはどちらにあったんでしょう?

最初は赤坂。内装が真っ白でね。でも、わりと早い時期に三田ハウスに移ったんです。写真家の横須賀功光さんもよくいらしてました。瑛子さんは横須賀さんとよく仕事してたでしょう? 横須賀さんってすごくカッコいい人だし、瑛子さんもカッコよくてね。瑛子さんは、横須賀さんのこと「ノーリー」って呼ぶんです。それで横須賀さんは「なーに? 瑛子」なんて言って、肩とか組んじゃったりして(笑)。

いわゆる男女じゃなくて、クリエイターの男の人と女の人の関係が、本当にカッコいいなと思った。そうやって一緒にクリエイティブしていく姿が、素晴らしい関係だなあと思って、とてもうらやましくて。その頃は私、男性恐怖症的なところがあったし、いろんなことが恥ずかしく思えてしまう人間でしたけれど、将来そういう男友だちがほしいと思いましたよね。

※次回は3月27日(金)に更新の予定です。