EIKOTIMELESS 石岡瑛子とその時代

文・取材:河尻亨一

# 10 「だれも書かなかったことを書いて」がオーダーでした(インタビュー:長沢岳夫氏)

Parco(1975) PARCO(1975)

また1970年代に話を戻したい。前回まで伊藤佐智子が話してくれた70年代前半のパルコの広告キャンペーンや西武劇場の舞台を手がけたのち、石岡は世間を挑発する強烈なメッセージを、パルコを通じて再び投げかけることになる。それが「モデルだって顔だけじゃダメなんだ。」「裸を見るな。裸になれ。」(共に1975年)である。

この2枚のポスターのコピーライティングを手がけたのが長沢岳夫だ。パルコのキャンペーンでは主に、長沢と小野田隆雄、杉本英之の3人がコピーライターとして石岡のチームに参加している。

長沢は伊藤より少し前、池袋パルコから“石岡組”に加わった。先ほどの伊藤へのインタビューでも話に出た「きみって素敵だ。いくつなの。」(渋谷パルコ/1973年)のコピーも長沢によるものである。

1980年代には、日本のウイスキーコマーシャルの金字塔とも言える「ランボオ」(サントリーローヤル)をはじめさまざまな話題のコピーを世に送り出した長沢だが、石岡との仕事はその少し前の時期にあたる。

サントリーローヤル「ランボオ」CM(1983) 

コピーライティングと言えば、近頃はちょっと難しい。ライフスタイルや価値観の多様化が進んだためか、驚くべき多くの情報たちがインターネット上に飛び交っているせいか、“広く”世の中に届く言葉を生み出すのはかつて以上に至難の技となっている。

しかし、1枚のポスターの上にのせられた1行の言葉が、世間に注目される時代もあった。ビジュアルのプロフェッショナルである石岡にとって、言葉の作り手との“お手合わせ”はどういったものだったのだろう?

千葉県の佐倉にある自宅を訪れた。長沢は「駅から遠いから」とクルマで迎えに来てくれた。町を10分くらい走ると小さな山が見えてくる。

自宅はその麓にあった。話を聞かせてくれたのは、木々が生い茂った谷に面した暖炉の部屋だ。時折、野うさぎの姿が見られることもあるという。パルコの頃にはすでにこの場所に居を構え、東京と往復しながら仕事をしていたそうだ。

インタビューが始まると、長沢はこう切り出した。「もう40年前の話ですからね。すべては過去になっている、という感じだな」

――どういう経緯で石岡さんとの仕事が始まったのか、おうかがいしたいのですが。

カメラマンの横須賀さんが、石岡さんに僕を薦めたらしいです。そもそも僕のボスは村瀬秀明というアートディレクターで、資生堂出身だったんですよ。村瀬さんは神奈工(神奈川工業高校)を出て18歳で天才と言われたくらいの人でね、日宣美で最年少受賞を記録してるんだけど。

この村瀬さんという人が横須賀功光という才能を発見したんです。まだ学生だった横須賀さんを資生堂で起用したのね。その頃も「花椿」なんかで一緒に仕事してましたから、横須賀さん、うちのオフィスによく来てました。当時すでに彼はトップカメラマンで時代の寵児でしたから、なんとなく雲の上の人だと思っていたんだけれど。それは僕がまだ当時の国鉄(JR)の仕事をしていた頃ですね。

――長沢さんはおいくつだったんでしょう?

コピーライターになったのは26歳で、パルコを始めたのは29歳だったかな? その国鉄の仕事でTCC(東京コピーライターズクラブ)の最高新人賞をもらいましたから、横須賀さんも僕のことを薄々知ってたんじゃないですかね。

日本国有鉄道 日本国有鉄道(現JR)

その広告は当時けっこう話題にもなったんです。紀行文調なんて言われたんですけど、国鉄がこんなことをやっている、意外だ、という時代でしたから。それがヒントになって、石岡さんに「だれか若いコピーライター、いないかしら?」と聞かれたときに紹介してくれたみたいですよ。で、横須賀さんから「一度会いに行ってよ」と言われて。憂鬱でしたけれどね……。

――憂鬱? 気がすすまなかったんですか。

そうなんです、断りに行ったんですよ、僕。ファッションやったことないしね。なんか向いてないなと思って。学生の頃に前田美波里のポスターを見て、「こんなキレイな人がいるんだ……」って相当ショックを受けたほうですから、あれをつくった人と仕事をやることになるなんて、すごいことだけれどもオレには無理だなあと。まだ駆け出しでしたし、自分に自信があるわけでもないから。そしたら、すごいこと言われちゃったんだよね。

「ファッションは苦手だという、私、そういう人がどんなコピーを書くかに興味を持っているわ」って。

それで逃げ道ふさがれちゃった。石岡さんは、既成のライターではなく新しい人と組もうという姿勢がわりとだれに対してもあった人ですけど、それにしても大冒険ですよね。

そもそも僕は池袋パルコなんて聞いたこともなかったですから。で、「1回見に行ったほうがいいですね?」と言ったらね、「長沢さん、見ないほうがいいわよ」って。パルコがどういうものなのかもよくわからずに、僕は参加してるんですよ。最初はあそこがテナントを集めている不動産屋みたいなものだということも知らなかったくらいで。

そういうところが広告をやるというのが、画期的と言えば画期的でしたよ。建物というか空間を広告で演出していくというね。幻想というかイメージの空間なんでしょう、あそこは。

でも、そういう説明はほとんどないんだよね。いきなりファッション誌の「ヴォーグ」なんかを見ながら、「こんなのやろうかしら?」なんて、そんな感じなんです。「テーマはなんですか?」って聞いたら、「何かしらねぇ?」って言うくらいでね(笑)。それで写真は上がってるんですから。

――撮影は終わってるんですね。そういうとらえどころのない作業だと、どこを取っかかりに言葉を考えていくんですか。

いや、大変なもんですよ。「きみって素敵だ。いくつなの。」(1973年)も写真は上がってたんですけど、おそらく気に入ったのがなかったんでしょう。コマーシャルからフィルムを切り取って拡大してましたよ。それを見ながら話してるうちに、やっと「年齢不詳かしら」というひと言が出てね。そこからです、書き始めるのは。

ただ、「年齢不詳のいい女」なんて言われてもね、こっちはまだ20代ですから。そんないい女、知るどころじゃないっていうか、途方に暮れるわけですよ。そもそも無理難題なんです。だけど妥協しないからね、あの人。何度もやるんですよ。

PARCO TV-CF(1973) PARCO TV-CF(1973)

そのわりにスケジュールもタイトで。3日しか時間がない。長くても1週間とかね。何を書いていいかわからないという状態で2日半以上を費やす。なんとか絞り出すようにして相当いっぱい書いていく。でも、それやってると自分でもわからなくなっちゃって。ヤバいなあというのがありましたよね。結局、最長で1ヶ月くらいかかってしまったものもあったなあ。

それまでの仕事だと、自分で一番いいと思ったものを出して、これで行きましょうというようなことをやっていたわけです。でも石岡さんの場合、そういうやり方はまったく通用しない。

書いて持っていっても、その紙の束を見て「もう1回お願いしようかしら」って言うわけだから。こっちはもう出し尽くして途方にくれているのにね。「早く解放してくれないかなあ」と思いながら、またやり直しですよ。

――石岡さんはどういう言葉をイメージされてたんでしょうか。毎回のテーマは違っていたのかもしれないですけれど、大きな狙いみたいなものとしては。

相当高度な要求だったと思います。「だれも書かなかったことを書いて」というのがオーダーですよ。だれも書けなかったコピーなんて言うけれど、日本中にコピーライターが何人いるんですか? って思いますよね。それくらいヒントなし、という感じなんです。

藁にもすがる思いでしたよ。「どれか引っかかってくれ」という。その繰り返しでとことん追いつめられる。僕も追い込まれないとダメなタイプだと自分でわかっているんですけど、石岡さんもそれをわかってたのかもしれない。

――その頃は書くたび直接見せに行くわけですよね? Eメールとか当然ないわけですから。

そうですね。ただ、不規則な時間帯の人なので、夜中から打ち合わせしましょう、なんてこともしょっちゅうありました。石岡さん、夜強かったから。

撮ってきた写真を見るのも、夜、暗いほうがいいわけです。壁にパッ、パッ、パッと全部写していく。それで「いる」「いらない」のネガ選びをするわけですけど、それに付き合わなきゃならないの。長いんですよ、これがまた(笑)。

あれはやっぱり資生堂スタイルでしょう。資生堂ってデザイナー集団が強いところですから、言葉ではなく映像が先行しますよね。外資系企業みたいに、コンセプトを考えてからそれにのっとって理詰めで作っていくというのとはかなり違うやり方で。

――いまは日本の企業でもコンセプトを練って完成型に近いスケッチを作り、プレゼンしてOKの判をもらってから、その設計図に忠実に作っていくというスタイルが多いと思うのですが。

その比較で言うと、パルコの場合、プレゼンなんてあってないようなもんですよ。石岡さんがパルコの増田(通二)さんに、「このモデルでやりたいんですけど、いいですか?」「あ、やってください」と。それだけなんです。

※次回更新は4月10日(金)の予定です。