EIKOTIMELESS 石岡瑛子とその時代

文・取材:河尻亨一

# 11 「あそこまでの人は、ちょっといないよね」

鶯は… PARCO(1976)


(コピーライターの長沢岳夫さんへのインタビュー続編です。※前回はコチラ

――あるようでないプレゼン……。ほとんど何も決まってない状態で、ゴーが出るんですか。それで進めてよし、と。

ええ、当然のことながらコピーもないし、スケッチさえない。ロケに行ってみないと何をやるかさえわからない。モデルだけ決まっている、ということが多かったですね。「どこからあの情報を入手してるのかな?」と思うくらい、石岡さんはモデル選びに長けてましたね。

資生堂でも前田美波里を使うとかね。横須賀さんが見つけてきたらしいけど、当時、ああいうタイプを起用しようって発想は、だれにもなかったんじゃないかな? モデルの世界にも女優の世界にもいなかったタイプですよね。

そういう人の存在感だけでね、ポスターになったら「新しい」と思わせる、そのへんなかなかの達人ですよ。ふつうのモデルだったら、気づかずにポスターの前を通り過ぎちゃうんだろうけれど、「そうはさせない」という計算みたいなものを感じる。

パルコのモデルたちってクセが強い素材なんですけど、それをソフィスティケートするデザイン力がある。それでグロにならないんでしょう。不思議ですよね。レイアウト自体は毎回似たような感じというか、そのへんあまり考えてなさそうなんだけど。

――石岡さんとのあいだでコピーを決めてからのパルコとのやり取りはどういうものだったんでしょう?

それに対してNGが出ることはまずなかったです。複数案出して最後は増田専務がジャッジするんだけど。まあ、一般的に言うとコピーのほうが文句をつけやすいというのはあるんです。画はね、専門家がやっているという雰囲気があるから。

パルコだと和やかでしたけどね。ボディコピーで1回「NO」をくらったことがあったくらいで。「卑猥」って言葉がひっかかって、結局キャッチコピーだけになった。まあ、あの頃の僕にすれば、パルコがどうなんて全然頭にないです。そんな余裕はなくてね。石岡さんにOKがもらえるかどうかが勝負でしたから。

「長沢さん、これがいいわね」とそう言うんだから、言った以上は通してくださいね、というスタンスです。そういうスタンスでやれたのがパルコの場合、一番大きいですよね。

――ロケをする場所なんかはどうやって決めるんですか。

ロケ地は石岡さんの行きたい場所を選んでいる。2回くらいロケに同行したことがあるんですけど、撮影が始まったら集中力が本当にすごくてね。「あ、ちょっと、あれよ、あれ撮って」「もう何してるのよ!」なんて、カメラマンも大変なんだ。

シンガポールで撮影したとき(「諸君、女のためにもっと美しくなろう」1976年)は、カルロスという美男子のモデルを使ったんですけど、最初はビーチで撮る予定だったんです。ところがその頃、シンガポールにはリゾートっぽいビーチがなくてね。先発のムービー隊がさんざん探して場所を決めたんですけど、行ってみると大型船が通っていたりクレーンが見えていたりする。

そしたら石岡さん、「私、こんなところで撮影したくない」って言い始めましたからね。もう決裂状態になっちゃった。演出の高杉治朗さん、真っ青ですよ。機材の箱を蹴飛ばしてました。結局、ホテルのプールに変えたんじゃなかったかな?

諸君、女のために PARCO(1976)


――横須賀さんもそうですけど、高杉さんと言えば当時すでに大御所のCMディレクターなのでは?

トップですね。年齢も高杉さんのほうが先輩なんですけど、先輩だって関係ない、あの人は。万事そういう進め方ですから、印刷所だって大変。上がってきた色校正を見て、「こんなの全然話にならないわ」って、夜中に印刷所に行くんですから。行ってそこで一緒に試し刷りして、見て、チェックして、何度もやってようやくOKとかね。だから印刷所も震えあがる。

もうね、サディストですよ。こっちはマゾじゃないとやっていけない。「もっといじめてくださいよ」くらいじゃないと(笑)。あそこまでの人は、まあ、ちょっといないよね。

この時期のパルコに、長沢岳夫がコピーを書いた「鶯は誰にも媚びずホーホケキョ」というキャンペーンがある(1976年)。長沢の言葉を借りるなら、このキャンペーンのポスターシリーズに起用されているモデルたちは、「クセが強い素材」ということになるだろう。

この年、西武劇場でイッセイ・ミヤケのファッションショー「三宅一生と12人の黒い女たち」のアートディレクション(舞台美術とポスター等)を手がけた石岡は、パルコのキャンペーンでも黒人モデルを起用することを思い立つ。

「鶯は誰にも媚びずホーホケキョ」という言葉は与謝蕪村の俳句からインスピレーションを得たそうだ。石岡は「黒人女性と俳句という組み合わせの新鮮さを狙ってみた」と語っているが、ビッシリと書き込まれた色校正(印刷時の色味の指示)からは、「印刷所も震え上がる」石岡瑛子の“ちょっといない人感”が伝わってくる。

鶯 右は横須賀功光氏の作品集『ザ・グッド=バッド・ガール』で石岡が色校正を再現したもの。


このキャンペーンについて、石岡自身は次のようにコメントしている。

「西武劇場の舞台『三宅一生と12人の黒い女たち』で大好評を得た12人の黒人女性たちは、あたりまえのことながら、日本の女性にはない、たくましい自己主張を発散し、覇気に満ちあふれていた。舞台づくりを通して彼女等とつきあってみて、決して美人とはいえない。しかし別の意味で女の魅力にあふれた彼女らのキャラクターを素材に、1976年春の、パルコのキャンペーンを語ってみることにした。

日本の女性は、長い歴史を通して、男性の考えた女性像に忠実に従うことが美徳とされ、男のカゴの鳥に甘んじることが、幸福への道だと信じようとしてきた。けれども20世紀も終末に近くなって、ようやくそれが虚像であることに気がつきはじめ、疑問だけはもったものの、出口が見つからないまま低迷し続けている」(『EIKO by EIKO』より)

当時石岡はパルコでは春・夏・秋のシーズンキャンペーンを主に手がけていた。長沢は笑いながらこう話す。「春が終わるとね、次の電話がかかってくるのが怖くて、怖くて。できれば、逃げたいくらいでしたよね」

石岡瑛子は、「完璧主義」という言葉では言い尽くせないくらいのエネルギーをものづくりに注ぎこんでいた。彼女との共同作業を体験した人々は、みなそういったエピソードを話してくれる。

仕事の進め方の上では、アップルの創業者にも似たあの感じがある。

私のほうも、ついそういった質問をしてしまう。「どれだけハードな作業だったのですか?」と。怖いもの知りたさ、というやつだろうか。

しかし、本当に知りたいことは「なぜ、そこまでやる?」に対する石岡の真意である。数々のエピソードの向こうに、その謎を解く鍵があるのではないかと私は考えている。

それはさておき。ビジュアルの魔法使いであった石岡は、そこに加わる言葉についてどう考えていたのだろう? 1枚のポスターや15秒のCMにおける言葉の役割は大きい。ビジュアルがいくら素晴らしくても、見た人の頭にそれを定着するためのトリガーがなければ、ただスゴいものを見たという漠然とした印象で終わってしまうからだ。

つきつめるとその言葉は、発信者である「PARCO」のひと言でよいとも言える。言語化できないイメージが重要であるファッションや高級ブランドの広告では、ビジュアルにブランド名やロゴだけを載せるケースが実際多い。

画の中にあるイマジネーションを言葉で決めつけてしまうことは、ときにリスキーでさえある。やりようによっては、せっかくの美しいイメージも台無しになってしまいかねない。

しかし、ビジュアルを発信する“その人”が何を考えているのか? そこをもう少し知りたくなるのが観客というものである。ファッションの広告でそこに大胆にチャレンジしたのが、この頃のパルコであった。そして石岡のつくるビジュアルにぶつけるコピーは、それと同じくらいの強さ、鋭さがなければダメだった。

1976年の雑誌「コマーシャルフォト」に、「石岡瑛子――デザインと思想」と題された20ページを超える特集記事がある。この特集は石岡がパルコや角川書店のキャンペーンを手がけている時期、つまり日本でもっとも精力的に活動していた頃の石岡の考え方や素顔に迫る、きわめて読み応えのあるドキュメントとなっている。

時代とともに古びないクリエイションと同時に、時をへて鮮度を失わない雑誌記事もあるものだと思わされるほどだ。この特集の中で石岡は次のように語っている。

「コピーライターって大変ですよ。パルコだったらそれこそ1回目、2回目、3回目と何度も納得のゆく答えが出るまでやります。1回目で全然違う。そこでなぜ違うかを互いに延々と話す。2回目はまだ答えが出ない。もう七転八倒する、両方とも。私も彼らも。(中略)私たちの欲しいコピーはいままであるもののなかにはないし、絶対未知のものが欲しいわけだから、コピーライターは苦しいと思う」

「私はパルコの仕事をやるようになってから、ずいぶんコピーの勉強になりました。(中略)パルコの仕事で、本当にコピーで語らなきゃならない部分というものがハッキリしてきたし、自分がどういうものが欲しいのかをコピーライターに伝える義務があるから。最終的にジャッジするということの責任もあるし。

映像とコピーのドッキングみたいな判断が私に迫られるわけだけど、映像もコピーもそれぞれの納得があったとして、どれとどれをドッキングさせるか、その判断はとても苦しい」

「苦しい」という言葉が何度も出てくる。私のように苦痛が苦手な怠け者は、読んでいるだけで息がつまりそうな気持ちになる。長沢ら後輩たちの苦しさもふまえた上で、あえて石岡は激シビアなオーダーを出していたようだ。そして、自分も同じようにもがいていたのだろう。

「コマーシャルフォト」のこの特集の取材に当たった編集者の田中弘子は、記事の中で次のように証言している。終電間際の電車で、石岡に偶然顔を合わせたときのこと。

「疲労困憊という体で元気がなかった。誰も他人に会いたくない瞬間というものは持っている。そんなときだったのかも知れない。いつもの若々しさが影を潜めていた。大して言葉も交さず別れたが、石岡さんの仕事のきつさを直に感じさせるものがあった。いつか倒れるんじゃないか、そんな危惧をふっともったものだった」

ドSであると同時にドMである。ふと、そういう感想が浮かぶ。

それにしても、なんのために? たぶん石岡が「絶対未知」という言葉で語る何ものかを世に送り出すためだろう。当たり前のことだが、いままで見たことがないものが、そんじょそこらの努力で生み出されるものではない。「絶対未知」とは、いまで言うイノベーションに近い何かだという気がする。

最近ではイノベーションという言葉がよく語られている。それが不足しているから、「日本経済は停滞しているのだ!」といった分析の中にこの言葉が多用される。しかし、クリエイションのフィールドだけでなく、いかなる領域においても絶対未知であるイノベーションには、それを成すための教科書やマニュアルがない。

これが困るところだ。何を読んでもだれに聞いても、そのやり方は結局わからないのである。しかし、ひとつ言えることとして、七転八倒するような苦痛やリスク、責任を引き受ける気概、そういったものが絶対条件なのだろう。くわえて「これをつくりたい」という不屈の意志がマストなのだろう。

次回は4月17日(金)頃公開の予定です。