EIKOTIMELESS 石岡瑛子とその時代

文・取材:河尻亨一

# 12 “1%の人たち”に向けたメッセージでいい

肌で知る PARCO(1975)


1970年代のパルコの広告のエピソードなどを書いていくと、つい「昔はよかったんだな」といった受け取り方をしてしまいがちだ。理解ある経営者、豊富な予算、自由な制作環境など、その時代はどれだけ恵まれていたのか……と。

しかし、先ほど引用した雑誌「コマーシャルフォト」の特集を読むと、その見方はいささかステレオタイプであるようだ。取材に当たった田中弘子は、次のように書いている。

「パルコや角川書店の仕事をみるとき、大抵の人たちは“恵まれている仕事だ”という見方をしてしまう。余りに煩雑であり、制約の多いのが日常の仕事のありようだとすれば、その煩雑さや葛藤の諸々がポスターや新聞広告の表面にジワジワとにじみ出てこないはずはないからである。

パルコや角川書店はきわめて特殊なケースであり、あれは非日常的な仕事なのだと、仕事をしているクリエイターたちが思うのは、実は不思議でもなんでもないかもしれない。けれども絵に描いたような理想的なケースが、この現実の世界で突如蜃気楼のように湧きあがってくることなど、百年待っても期待できないこともまた確かなのだ」

特集内のインタビューで石岡自身も次のように言っている。

「最初から与えられたものじゃなくて、すぐれた場を作っていくというのも、クリエイターの仕事のひとつだと私は思う。パルコの場合もそのために4年から5年はかかっている。もちろん、これにはクリエイターだけがやったという傲慢な言い方は許されないし、パルコ自体が色んな形で企業としてすばらしく成長してきたということがあってのことです。

しかしはっきり言って実際には外側から見るほど温室ではない。箱入娘のように思われているようだけれど、制作過程ではお互いにスゴい葛藤があるわけです、実際は。なぜかといえば企業はお金を使って、それを有効に、ビジネスとして得をしたいということが常に基本にあるわけだから」(「コマーシャルフォト」1976年5月増刊号)

1970年代は不況の時代でもあった。1973年、つまり渋谷パルコがオープンした年には、第四次中東戦争を契機に生じた石油価格の暴騰、いわゆるオイルショックが日本を直撃していた。新聞の見出しに「狂乱物価」という言葉がおどり、日本経済は翌年、戦後初のマイナス成長へと突入する。

よくトイレットペーパーの買い占めのが象徴的に語られるが、実際、紙資源の不足から、週刊誌や漫画誌のページ数も大幅に削減せざるをえない状況だった。当然のことながら消費は低迷し、企業活動も低調、各社の広告費も大幅に削減されていた。

しかし、パルコの舵取りであった増田通二(当時、専務)は、この大不況に対しても他社と異なる姿勢で向かい合った。増田の部下であり、宣伝担当として信頼を寄せられていた故・石川福夫(元パルコ常務宣伝担当)は、増田の自伝的著作『開幕ベルは鳴った』に寄せたコラム記事で当時を回想している。

増田はこのように言ったそうだ。

「石川君、これから広告が荒れるよ。他社は売り上げ維持に慌てて即物的な価格訴求型になる。パルコは、こうした時こそ徹底して美しい表現で、パルコの必要性(プラグマティズム)を訴求しなければならない」

まさに“恵まれた環境”ではあった。しかし、それは与えられたのではなく、さまざまな人々の努力と血と汗によって作られたものでもあった。成果も出た。石川は次のように書いている。

「その年度のパルコの売り上げは、前年比20%の伸びと記憶しています」(『開幕ベルは鳴った』)

遺伝するかしないか PARCO(1973)


20代の長沢にとって、「和やか」にも見えた経営者と表現者のやりとりの裏側には、実は血の吹き出すようなぶつかり合いもあったのかもしれない。少なくとも石岡自身は戦っていた。

「企業が何を求め、何を望んで、どういう方向性でその企業を演出してゆけばよいのかと考えたときに、いまはこれだ、という答えを出すわけだけれど、それで行けるのかどうかというところで、ずいぶん企業とやりとりもするし、意見をトップと戦わせながら、固めてゆくわけです。その場合、企業側の内部でも意志統一が一本化されているということが、私たちにとっては幸運だったのです」(「コマーシャルフォト」1976年5月増刊号)

「あってないようなプレゼン」は、戦いのあとの儀式のようなものだったのかもしれない。キャンペーンを打ち出すにあたっての最初の大きな方向性、「それで行けるのかどうか?」の部分で合意が得られれば、キャスティングやロケ地、その他のディテールは石岡の判断にお任せだったのではないだろうか。

この特集のインタビューでは、石岡にしては珍しく、“私たち”という言い方を頻繁にしている。「スタッフ一丸となって」という意識が強かったのだろうか?

コピーライティングの話に戻れば、このとき石岡は「アートディレクターが防波堤に」ならなければいけないと考えていたようだ。企業とコピーライターが直でやり合うのではなく、「ワンクッション置いたほうがコピーライターもいい力が出せる」と言っている。先の長沢の指摘と同じく「アートはまあこんなものかと思う人でも、コピーだけはみんな本当に寄らば切るぞっていう感じでくるから」とも語っている。

それだけに言葉作りの工程も、より激しいものにならざるを得ない部分があったのだろう。ふつうなら逃げ出してもおかしくないハードな作業の日々。考えようによっては“ブラック”な仕事である。石岡に会う前から「憂鬱だった」と語る長沢岳夫は、なぜパルコの仕事を続けることができたのだろう?

――石岡さんの要求に対して、理不尽だと思われることもあったかもしれませんが、長沢さんは、なぜ途中で抜けたり、仕事を降りたりされなかったんですか。

みんなそうだったと思うんですけど、なんで我慢できるかというと“結果”ですよ。僕なんかも結果を見て、「ああ、ここまで行くんだ」って思えたから。最終的に仕上がると、納得させられてしまうんです。だから、耐え難きを耐え……ね?(笑)

けっこうね、みんな意地張り大会ですよ。CMの音楽をつくる作曲家もそう。「映像とか、あんなものに負けてたまるか!」と思ってやってたらしいです。石岡さん、人を焚き付けるのがうまいんだよね。

まあ不思議な仕事でした。パルコに関しては、お金でやった仕事という感じが全然しないもの。いまだから言うけど、ギャラもかなり安かったですしね。

――お金に替えられない何かを得ている、といった感覚もあったわけですか。

やっぱり世間からの手応えですかね。広告をつくって、あんな手応えが返ってくるなんて、びっくりしましたもん。ボスの村瀬も「パワーのあるコピーは、絶対世の中に影響を与えるよ」と言ってたけど本当にそうだった。

パルコを始めた頃、流通で一番いい広告は伊勢丹だったんです。それを土屋耕一さん(コピーライター)ら先輩方がやっている時代だったんですけど、「ああいう方向じゃないものをやらなきゃいけないんだな」というイメージだけは、最初から自分の頭にあったんですよ。伊勢丹は百貨店だからあれでいいんだ、でも、パルコはもっと特化されたファッションのビジネスなんだと。

石岡さんもずっと言っていたけれど、1パーセントの少数派の人たちに向けたメッセージでいい、というふうに思ってました。百貨店みたいに対象を広げる必要はない。ところが「モデルだって顔だけじゃダメなんだ。」(1975年)をやっていたら、土屋さんがね、伊勢丹で「なぜ年齢をきくの」なんて広告を始めたんです。そのときに「あ、勝ったな」と思いました。向こうに影響を与えたな、と。

――「きみって素敵だ。いくつなの。」に近い路線ということですね。1パーセントに向けた言葉がジワジワ浸透して、百貨店のほうもそれを意識せざるをえなくなったと。

反響が出てくるまでのタイムラグはあるんです。「モデルだって顔だけじゃダメなんだ。」は、自分としてもかなり期待していたんだけど、オンエアが始まっても、最初はシーンとした感じでしたから。ところがそれからしばらくしたら、あっちこっちのメディアがいっせいに取り上げ始めてね、騒然とした話題になってびっくりしましたけど。

石岡さんは、前田美波里のポスターのときのそういうリアクションを知っていると思うんだけれど、僕はここまでスゴい反響は初めてで。私としたら、その年から本格的にパルコが始まったようなものなんですよ。「モデルだって顔だけじゃダメなんだ。」が春で、夏は「裸を見るな。裸になれ。」というものでした。

Parco(1975) Parco(1975)

――広告の教科書に必ず出てくるような名作ですね。

まあ、夏のほうは自分でもよくわからないコピーなんですけどね。テーマは「裸」でしたけど、あまりにも具体的すぎて。このときも悪戦苦闘してね、このコピーに関しては「出てきちゃった」としか言いようがない。

「いらないでしょう? コピーのメッセージなんて」という世界じゃないですか。もう完成しちゃってますから、ビジュアルだけで。隙があればコピーはそこを狙うんだけど、なかなかそれが見つからないから難しいですよ。


※次回は4月21日(火)更新の予定です。