EIKOTIMELESS 石岡瑛子とその時代

文・取材:河尻亨一

# 13 時代はけっしてひとつところにとどまってはくれない

死ぬまで女でいたいのです
――「死ぬまで女でいたいのです。」というキャンペーンも1975年ですね。

その年の冬にやった着物のキャンペーンです。あれはね、石岡さんとの仕事じゃなくて、アートディレクターの長谷川好男君と組んだもの。これも反響がすごかったんですけど、石岡さんの言わんとする女性像と正反対のことをやっているわけで……。彼女は面白くないと思ったでしょうね。

そういうところ、僕も分裂症だよなあなんて思うんですけど、これも七転八倒しながら書いたものなんですよ。和服なんてわからないことだらけの世界ですから。

これはおそらく広告で初めて、メインキャッチに「死」を入れたコピーなんです。意味の上で重要なのは「女でいたいのです」の部分なんだけど、撮影した女性の着物姿に「死」という言葉が、まったくよく合うというかね。僕らも半分は「危ないかな?」と思いながら、「これは絶対に通さないとな」と言ってたんです。

実際そのことに関して、パルコ内でも反対の声があったみたいです。でも、それを増田さんが押し切ったらしいんだね。増田さんが亡くなったとき、藤原新也さんが新聞の追悼文で、これを「すごいことだ」というふうに書いていたんですけど。

とにかくその年は脱力感がすごくて、もう広告の仕事なんてやりたくないと思った(笑)。全部持ってかれた、吸い取られたような気がして。まあ、広告って言っても、ある意味パルコはそれを逸脱しているところがありますけどね。

この冬パルコでは、着物が飛ぶように売れたという。

1975年、この1年で持てる力を出し尽くしたと長沢は言うが、翌年も「鶯は誰にも媚びずホーホケキョ」「諸君、女のためにもっと美しくなろう」といった話題のキャンペーンに参加している。

パルコの広告は当時、「わからない」の代名詞のように語られていたようだ。わからないので、“フィーリング広告”などとも言われていたが、当然のことながらフィーリングだけでやっていたわけではない、ということはいままでの長沢の話からわかる。

“わからなさ”がピークに達したのが、同じく1975年の「モデルだって顔だけじゃダメなんだ。」「裸を見るな。裸になれ。」だ。

春キャンペーンのロケ地はロサンゼルス郊外のドライレーク、夏はフィリピンだった。
モデルだってファッションだって
この二つの広告について、石岡自身はこう記している。まず「モデルだって顔だけじゃダメなんだ。」に関して。

「1975年春に送り出したこのキャンペーンでは、長沢岳夫の創ったコピーが大成功への言動力となった。長沢岳夫と私は、かなりのキャンペーンを組んで手がけてきたが、彼は、私が投げる難しい球に、実に見事な答で球を投げ返してくれるキャッチャーである。

この時、私は長沢岳夫と好感のもてない女性像、という主題について具体的かつ分析的に話を交わした。そして一致した考えを見出すと、鋭い批判精神を基本にもって、それをユーモラスに表現してもらえないかと頼んだ。

この頃、私は歴史のフィルターを幾重にもくぐり抜けて現代まで生き残ってきた民族服に関心を持っていた。しかし民族服を都会の女性に勧めるには、それなりに演出の工夫がいる。そこでコレクションに成功をおさめ多忙を極めている三宅一生をパリに訪ね、口説き落としてスタイリングを頼み、2人で素材を探し歩いて撮影にのぞんだ。」(『EIKO by EIKO』)

ちなみに「モデルだって顔だけじゃダメなんだ。」は、「ファッションだって真似だけじゃダメなんだ。」という別バージョンと対になった広告だ。

裸を見るな3

一方、「裸を見るな。裸になれ。」は3バージョンある。モデルはフランス人女優のオーロール・クレマン。パルコのオファーを受けたのは、主演した映画「ルシアンの青春」(ルイ・マル監督)が世界的にヒットした直後だった。

「なぜ裸なのか?」について石岡はこう説明する。

「パルコは主としてファッションに関するあらゆる商品を売ることで、基本的なビジネスが成立している企業であるが、私はファッションという主題を単に肉体の外側を飾る、衣(ころも)の思想としてのみに終始することをやめ、着る人間の在り様のほうにこだわっていくことで、攻撃的かつ刺激的なキャンペーンが展開できるのではないかと考えた。

『裸は、自然が創った最高の衣』として、『脱ぐのはファッション』と言いきってしまったのも、私流の逆説的な切り込み方の一つである。自分の心を裸にしようともせず、人の心を裸にさせたがる日本女性の、陰にこもった心理を私なりに批判している」(『EIKO by EIKO』)

1975年のパルコのキャンペーンは、裸と民族服、着物が入り乱れることなった。しかし、石岡は着物にはタッチしていない。着物姿の女性が「死ぬまで女でいたいのです」と語りかけるキャンペーン、生涯人に女という“衣”を着せようというふうにも捉えかねられないメッセージは、長沢が「石岡さんの女性像とは正反対」と言うように、彼女の考え方とは相入れぬものだった。

しかし、こちらも型破りな広告ではあった。意味的には「ずっと女でいたいのです」と書けばすみそうなものを、あえて「死ぬまで」という言葉を選んでいる。それくらいのパワーで立ち向かわないと、「裸を見るな。裸になれ。」の迫力に太刀打ちできない、というのもあったのではないだろうか?

社員の反対を押し切ってまでその言葉にこだわった、増田の真意もそのあたりにあるのかもしれない。それも見えざる戦いだった。相反するメッセージを同じ土俵で戦わせながら、その相乗効果で時代というステージを盛り上げていく。

パルコの「あゝ原点」(1977年)キャンペーンなどで石岡と組むことになる写真家の藤原新也は、先ほど長沢が話に出した増田通二への追悼文で次のように書いている。

「忘れてはならないことはパルコとは流通産業の規模としては弱小の、単なるテナントビルにすぎないということだ。売っているものは品物ではなく“箱”なのだ。広告、出版、ギャラリー、演劇、というさまざまな表現活動が時代を牽引するほどのラジカルさを示したのも、その“弱小”と“箱売り”という二点の企業性格に負うところが大きい。

広告分野においては大手の圧倒的な出稿量に対抗するために、目立つ必要があった。目立つことはテナントに売るための空っぽの箱の付加価値を高めることにもなる。必要は発明の母ということだ」(「たたき上げの反骨精神」「朝日新聞」2007年6月27日付)

過激にも思える数々のキャンペーンも、必要があってなされていた。それはしたたかな経営戦略でもあった。

「モデルだって顔だけじゃダメなんだ。」と「裸を見るな。裸になれ。」はパルコの“したたかな経営戦略”のひとつの到達点であっただろう。

それらのキャンペーンが引き起こした大反響によって、石岡自身もヒットの仕掛人のような扱われ方をするようになる。本人の意図とは裏腹に「新しい生き方をする女性の代表」といったアングルから、メディアにピックアップされることも増えていく。

「婦人公論」や「週刊文春」といった大手出版社のメジャー誌に登場したり、作家の五木寛之や池田満寿夫ら異分野の著名人との対談企画が組まれ始めるのもこの頃からだ。

石岡によるその後のパルコの仕事では、1977年の「あゝ原点」や女優のフェイ・ダナウェイを起用した一連のシリーズなど、ピックアップすべき重要な仕事がある。それに関しては後述したい。

長沢はこのあと広告制作プロダクションの立ち上げに参加、その後フリーとなった。その頃長沢は、サントリーの仕事に取り組んでおり、そこで生まれたのが「羊飼い」(サントリーオールド/1979年)といった珠玉のコマーシャルだ。

なかでも「ランボオ」(サントリーローヤル/1983年)は、ある世代の人たちにとって、忘れがたいインパクトを与えたCMである。映像に言葉、音楽、そのすべてがよその世界からやってきたかのような不思議な感覚に満ちた、これもTIMELESSなCM映像だ。

ランボウ90 サントリーローヤル「ランボウ」(1983)※画像クリックで視聴可


それについても聞いてみた。

――その後の長沢さんのお仕事についてもうかがいたいです。たとえば「ランボオ」は私が小学生の頃に衝撃を受けたコマーシャルだったんですが。

自分がやった仕事の中で、一番好きなのは「ランボオ」なんですけど、あれなんかも広告のつくり方としては、パルコを引っ張っていると言えば引っ張っているんですよ。僕の場合はね、あの延長上にあるなあ。それまでにインプットしてきたものが、自分の中で育まれていくところはあるけど、スポンサーが変わったからって、急にハートまで変わるわけじゃない。

コピー作法そのものとしては、追い込まれていっても、答えを出していくというスタイルを、パルコの頃に身につけていったんでしょう。伝わるものにするためには、どこかのお手本はいらないんだ、自分の中の世界で書けるかどうかが大事なんだ、と。

――「ランボオ」は制作スタッフもパルコとけっこう重なる感じがしますね。コピーが長沢さんで、演出が高杉治朗さん、スタイリングが伊藤佐智子さんなので。

70年代の後半くらいから、サントリーのほうでもパルコの広告をつくっているスタッフでやってみたい、という意向はあったみたいでね。それで高杉さんを起用したんです。本当は石岡さんともやりたかったみたい。

でも、石岡さんって「会議で決裁はしない」「トップと会って決定する」というスタイルの人でしょう? 仕事をやるときにいろいろ条件つけるじゃないですか? ああいう大きい企業と馬が合ったかどうかはわかりませんけどね。

それにしても石岡さんみたいな、野蛮な人っていなくなっちゃったね。ああいう知的で野蛮な人がね。「自分が興奮しないものをつくったって、しょうがないじゃない」っていう人だから。それでもって周りを焚き付けて、逃げ道もふさいじゃう(笑)。

「今日はちょっと遅いけど、打ち合わせいいかしら?」「あ、いいですよ」「じゃあ、12時にお願いね」なんて。それ、ちょっと遅いなんてレベルじゃないと思うんですけど仕方がない。酒場で飲んでから行きましたよ。

ランボオのコピーで「あんな男、ちょっといない」と書いた長沢。この頃には、ちょっといないはずの女や男がちょっとはいたのか? という感想も浮かんだ。

「ランボオ」はオンエアが危ぶまれていたのだという。取締役会では「こんなもんやったら、あかん」「商品のことをまったく言ってない」という反対意見が続出したそうだ。

ある見方からすれば、これは商品のことしか言ってないようにさえ思えるのだが(上質なウイスキーの酔いがもたらす世界であるから)、表現は人によっていろんな見え方をしてしまう。ヘンな見え方をすれば会社は損をする。広告というものの難しさである。宣伝部の粘りによってなんとかオンエアにこぎつけたところ、大反響が巻き起こった。

インタビューの冒頭で、「すべては過去になっている」と長沢は語った。その通りだと思う。パルコのオープン10周年を機に出版された『パルコのアド・ワーク』で、石岡自身次のように書いている。

「時代は、けっしてひとつところにとどまってはくれない」

だが、過去は現在にまでつながっている。そして、ふと気づくとそれは繰り返されてしまっていることもある。ちょっといない人、石岡瑛子の物語は、まだ始まったばかりである。

第1章完


※次回は5月1日(金)頃更新の予定です。